西表島の石碑・説明看板  更新 2014.05.31

下表の青字の部分が今回追記した個所です。


No. 名    称 場 所
1. 忘勿石之碑 東部・南風見田
3. 豊原入植50周年記念碑 東部・豊原
5. 拝所の由来の碑 東部・大原
7. 山中貞則先生之像 東部・大原
9. 仲間第一貝塚之碑 東部・大富
11. 交通安全之塔 東部・大富
13. 古見ぬ浦節 東部・古見
15. 先島スオウの木 東部・古見
17. 古見の浦節の碑 東部・古見
19. ESSAYONS L.Z. 東部・古見
21. 船浦のニッパヤシ植物群落保護林の
概要看板
西部・船浦
23. でんさ之碑 西部・上原
25. いのちの泉 西部・住吉
27. イリオモテヤマネコとの共生のために 西部・浦内川
29. マリュドゥの滝(日本の滝100選) 西部・浦内川
31. 干立の節祭 西部・干立
33. 慶来慶田城翁屋敷跡 西部・祖納
35. 記念物 タブの老木 西部・祖納
37. 太平井戸 西部・祖納
39. 西表トンネル工事の石の碑 西部・白浜
41. No.11237水準点 西部・白浜
43. イリオモテヤマネコ発見捕獲の地 西部・船浮
45. カマドマの碑 西部・船浮
No. 名    称 場 所
2. 開拓之碑 東部・豊原
4. 竹富町制施行50周年記念タイムカプセル 東部・豊原
6. 大舛久雄氏之像 東部・大原
8. 西表島の概要(仲間橋) 東部・大原
10. マザカイ之碑 東部・大富
12. 耕そうゆがふ地 東部・大富
14. 矼ゆば節 東部・古見
16. 古見のサキシマスオウノキ群落説明看板 東部・古見
18. 感謝記念碑 東部・古見
20. 船浦のニッパヤシ群落 西部・船浦
22. 北岸道路開通記念之碑
  
西部・船浦
24. 住吉 入植記念碑 西部・住吉
26. 浦内橋の碑 西部・浦内川
28. 萬骨碑 西部・浦内川
30. 星立天然保護区域 西部・干立
32. 節祭 文化財指定記念碑 西部・祖納
34. 長寿坂の歌 西部・祖納
36. 記念物 大竹祖納堂儀佐屋敷跡 西部・祖納
38. 鳥獣魂供養の碑 西部・祖納
40. 西表トンネルのプレート 西部・白浜
42. 竹富町子午線モニュメント 西部・白浜
44. 東郷平八郎上陸の地 西部・船浮
46. 上の川 西部・船浮

1.忘勿石之碑

忘勿石之碑
忘勿石
ハテルマ
シキナ


忘勿石:ワスレナイシ
本来の忘勿石は、この碑の向かって右手側の岩の上に記されています。
本来の忘勿石
忘勿石之碑 全景

「忘勿石の碑」は、西表島南東部の南風見田の浜にあり、波照間島に向かって建てられています。建立されたのは1992年8月15日です。
なお、波照間島には「学童慰霊碑」 が建てられています。
忘勿石之碑建立のあらまし
忘勿石之碑建立のあらまし
波照間公民館始め 関東、関西、沖縄本島、石垣、西表島の各波照間郷友会、識名信升先生の御家族及び 縁故者、知人、友人、退職教職員、八重山郡内外の各学校、多数の諸社、諸機関の人々の平和を愛する貴い厚意ある御芳志に依って全世界人類の恒久平和を願い、愚かな戦争の為、亡くなった数多くのマラリア犠牲者の精霊供養と遥か波照間島を望む識名先生の遺徳を偲び建立したものである。
忘勿石之碑建立事業期成会
(以下省略)
虚ろに煙る 母の島影
呼べど白砂続く恨みの浜
母も逝き露しづくともがら
帰らぬ教え子抱き恩師の声
石叫びやまず 忘勿石

忘勿石の碑
 この一帯は歴史的な戦争マラリアの悲劇の霊境である 一九四五年四月 波照間の住民が軍命によってこの地に強制疎開させられ多くの人々が熱帯マラリアに罹患して 古里の島影を求めながら亡くなった
 その人々の苦悩はまことに筆舌に尽しがたいものがある 学童とともに疎開し その学童たちの死を見守りながら 浜辺の岩に「忘勿石」と刻んだ識名信升先生の心情は察するに余りあり
 この碑が歴史を語り継ぎ 病没した人々の霊を慰め 平和創造への礎となることを祈り願う
 一九九二年八月
 琉球大学名誉教授  高良鉄夫

2.開拓之碑

開拓之碑 表面

同側面
【表面・上段】
開拓之碑


【表面・下段】
記念碑建立者名
(以下省略)

【側面】
豊原開拓団
入植30周年記念
昭和58年6月9日
豊原公民館と碑

この碑は豊原公民館の隣に建てられています。

3.豊原入植50周年記念碑

豊原入植50周年
記念碑


裏面
【表面】
豊原入植五十周年記念
拓心盛里
心を拓き 里盛える


【裏面】
昭和28年(西暦1953年)6月9日琉球政府計画移民として、豊原開拓団はこの地に入植した。
当初、開拓は困難を極め筆舌に尽くし難い労苦を不撓不屈の精神で乗り越え、昭和58年10月9日入植30年をめでたく迎え地域住民一同大きな喜びで盛大に式典を挙行した。
我々はそれ以降も先達の開拓精神を忘れる事なく継承し、地区の整備発展に邁進し現在の輝かしい豊原を形成するに至った。
本日入植から半世紀の節目にあたり、更なる躍進を誓いこの記念碑を建立するものである。
  平成15年(西暦2003年)11月吉日
「開拓の里」遠景

この碑は豊原公民館向いの「開拓の里」の前に建立されています。

4.竹富町制施行50周年記念タイムカプセル

タイムカプセル

【下部プレート】
【上部側面
竹富町制施行50周年記念タイムカプセル
西暦1998年発〜西暦2023年行き

【下部プレート】

竹富町制施行50周年を記念して、現在から未来への
夢の架け橋となるタイムカプセルを設置します。
子供達をはじめ全町民からの熱いメッセージなどが、
納められています。
このタイムカプセルの扉は、町制施行75周年となる
西暦2023年7月2日に開封され、あなたのお手元に
メッセージは確かにお届けします。
 1998年7月2日
          竹富町長 西島本 進

同遠景

このタイムカプセルは、竹富町立・交流センター内に設置されています。

5.拝所の沿革

拝所の沿革の碑
【表面
拝所の沿革
昭和十六年沖縄県は十五ケ年振興計画自作農創設法に基きこの地に新城
両島民を主体に入植事業を進め公共施設の一つに拝所をハテル山の麓に
建て新城両島の神々を合神し昭和二〇年五月鎮座祭を行ふとしたが敵の
空爆にはばまれその実現空しく終戦となった。
戦後人々は地域再建の中で拝所の位置は遠すぎるとしてこの所を聖地と
定め昭和二十二年新城上地島から分神して神社を建てた。月日は流れて
五〇年ここに沿革の碑を謹立
御神体 = 光熱 酸素 水素 = 自然

【側面】
平成八年吉日 西大舛 高壱

この碑は大原地区の大原神社内に建てられています。

6.大舛久雄氏之像

大舛久雄氏之像


大原創立
草分けの父
ありし日の
影を慕いて
像を建て
氏の功績を
永遠に伝えむ
大舛久雄氏は、昭和19年4月に八重山支庁長に着任、昭和20年5月に空爆により支庁長官舎の壕で爆死。新城島出身で特に大原への移住を推し進め、亡くなるまでに勲六等や叙正七位などを授章されている。

7.山中貞則先生之像

山中貞則先生之像
表面

裏面・建立趣旨
【表面
竹富町 名誉町民
山中貞則先生之像

【裏面】
(建立趣旨)
竹富町名誉町民(昭和50年2月23日推挙)
 故山中貞則先生は、大正10年7月9日鹿児島県曽於郡末吉町でお
生まれになり昭和58年衆議院議員に初当選以来82歳で他界される
まで国政の場で国務大臣・通商産業大臣をはじめ主要なポストを歴
任され、我が国の平和と繁栄に大きな貢献をなされました。
 特に沖縄県については、昭和45年、昭和46年総理府総務長官
として、沖縄の本土復帰の円滑な実現に尽くされ、また初代沖縄開発
庁長官として、卓越した政治手腕と指導力をもって本土復帰に伴う
難題解決、沖縄振興開発に関する諸法令制定の推進等まさに歴史に
残る数々の偉業を成し遂げられました。
 我が竹富町に於いては、海上交通の機能拡充と旱魃時の飲料水の
確保が離島住民長年の重要課題でしたが、格別な御厚情をもって復
帰と同時にホバークラフトが就航し、海上交通に一大革命をもたら
しました。昭和50年2月、西表島から「命の水」が海底送水により
黒島・新城島に給水が実現、その後竹富島・小浜島・鳩間島と次々
に整備されました。昭和63年に波照間島かん水淡水化施設、更に鳩
間島・西表島船浮・新城島の海底送電の実現をはじめ、各島々の経
済基盤や産業振興等諸公共施設の整備に多大な御尽力を賜りました。
 よって竹富町民は、地域発展の大恩人故山中貞則先生に報恩の誠
を捧げ末永く後世にその功績を顕彰するため、ここに先生の胸像を
建立したものであります。
   平成18年2月吉日
      山中貞則顕彰記念事業期成会会長
      竹富町長 大盛 武
山中貞則先生之像遠景

山中貞則先生之像
裏面全景

この碑は大原地区の離島振興センター入口に建てられています。

8.西表島の概要(仲間橋)

「西表島の概要」
プレート


仲間川
【表面
西表島の概要
 西表島は、沖縄本島に次ぐ大きな島で28,444haの広大な面積を有し、その9
割は国有地で、国指定特別天然記念物のイリオモテヤマネコを始め陸棲動物、
植物、昆虫、鳥類など学術的に貴重な野生動植物等が生息している島として国立
公園に指定されている。
 地形は、大半が山岳的様相を示し、標高450m前後の連山も開析して、大
小無数の渓流をなしている。
中でも東部の仲間川、西部の浦内川の二大渓流は、東洋のアマゾンといわれ、
その河川流域には、大規模なマングローブ林が広がり、ほとんどが原生の姿
をとどめている。


このプレートは仲間橋のほぼ中央部(上流側)に設置されています。

9.仲間第一貝塚之碑

仲間第一貝塚
県指定碑


県指定史跡 仲間第一貝塚
                      指定年月日 昭和31年10月19日
                      所 在 地  竹富町字南風見仲
 仲間川河口に形成された本貝塚は、今から約1000〜1200年前の貝塚で、土器がまったくみられず、石器が多いのが特徴です。
この遺跡から出土した遺物には、石器、貝製品、角釘、開元通宝、青磁片、貝殻類、獣魚骨、焼石などがあります。石器の種類には、石斧・敲石・凹石・磨石・石鏃などがあります。陸・海・川産の貝殻類、猪・ジュゴンの骨、焼石などが出土していることから、近くの山・川・海で狩猟や採集によって得られた食料を焼石を用いて調理したと考えられます。
 さらに、鉄製の釘、開元通宝、青磁片も見つかっていることから、他の地域との交流があったことが推察されます。
 この遺跡は、全国的にもまれな新石器時代の無土器遺跡として知られており、八重山地域の歴史を解明するうえで重要な遺跡です。
 なお、この地域で許可を得ることなく現状を変更すること、又は、保存に影響を及す行為をすることは条例で禁じられています。
                            平成8年3月
                            沖縄県教育委員会
                            竹富町教育委員会

仲間第一貝塚 説明碑

この碑は大原側から仲間橋を渡ってすぐの右手側にあります。

10.マザカイ之碑

マザカイ之碑【表面】

同【裏面】

【表面】
マザカイ之碑
いきゃぬ
 ゆやんど
なぐぬ
 ちにゃんど
なかま
 くいおった
しるぐみぬ
むちぐみぬ
 くり
ふしやんど


【裏面】
西表島開拓移民先駆者マザカイ
竹富島に生まれたマザカイは(崇禎)一〇年
(一六三七)過酷な人頭税の施行により
マラリアの蔓延と交通のない万難の
中で仲間地区を開拓した
表の文はマザカイの勇徳を讃える代表的
一節である
我々はこの歌に支えられて今日を築いた
地域社会に勇気と克己心を教え西表島の
秘境開拓に挑んだ偉大なる先駆者の治績
を讃え遺徳を顕彰するため縁の地にこ
の碑を建立する
 平成八年七月三十日
竹富島出身マザカイの碑建立期成会
(以下省略)

「マザカイ」とは竹富島の歴史上の人物である「真栄」で、8世紀初頭に竹富島玻座間村で生まれました。19歳で分家し、小山家の祖となり、その後、西表島仲間村に移住し、山野や荒地を開拓し田畑にしたと伝えられています。
「マザカイ節」は、竹富島に生まれた「真栄」と、その恋人が寄人政策によって竹富と西表に引き裂かれた悲劇を詠った民謡として知られています。
マザカイ之碑遠景



この碑は大原側から仲間橋を渡ってすぐの左手側にあります。1997年に建立されました。

11.交通安全之塔

交通安全之塔 表面
【表面・上段】
交通安全之塔
【表面・下段】
竹富町
八重山警察署
八重山地区交通安全協会
平成14年9月29日


【裏面】
八重山地区交通安全協会
創立50周年記念事業
(以下関係者名省略)
交通安全之塔 裏面

この碑は大富地区の大富売店横に建てられています。

12.耕そう ゆがふ地

耕そう ゆがふ地の碑
【上段】
耕そう ゆがふ地
県営農地開発事業大富地区完了記念碑

【下段】

竹富町土地改良区

この碑は大富地区の農地にある給水塔のそばに建てられています。

13.古見ぬ浦節

「古見ぬ浦節」の碑

「古見ぬ浦節」の碑は、東部の後良川展望台そばに立てられています。
古見(くん)ぬ浦節(うらぶし) [上段]

(訳) [下段]

古見(くん)ぬ浦(うら)ぬ八重嵩(やいだき)
八重重(やいかさ)び美与底(みゆしく)
何時(いつ)ん見欲(みよ)しゃばかい

古見の浦にそびえ立つ八重岳(やえだけ)
七重八重に重なっている美与底(みゆすく)
いつまでも眺めていたい

桜花(さくらはな)ぶなれしま
梅(んみ)ぬ花女童(ばなみやらび)
何時(いつ)ん花(はな)ゆさかい

桜花の如く美しいぶなれしまよ
梅の花の如くかぐわしい乙女よ
いつも花の盛りのように美しい

袖振(すでい)らば里之子(さとぅぬし)
沈伽羅(じんきゃら)ぬ匂(にう)いしゅしる
何時(いつ)ん染(す)まる匂(にう)い

あの人の袖からこぼれる匂いは
伽羅(きゃら)・沈香(ちんこう)のようにかんばしく
永久に私に染まっていくようだ

女童(みやらび)ぬ想(うし)いぬ
愛(かな)しゃーまぬ情(なさ)きぬ
何時(いつい)んおーり語(かた)ら
乙女の想いは
愛しい乙女の心情は
いつまでも二人だけで語っていたい

14.矼ゆば節

「矼ゆば節」の碑



「矼ゆば節」の碑は、東部の後良川展望台そばに立てられています。
矼(はし)ゆば節 [上段]

(訳) [下段]

二十村(はたはら)ぬ夫(ぶし)ば乞(く)い
四十村(ゆすはら)ぬ夫(ぶし)ば寄(ゆ)せ

二十村の人夫を請い集め
四十村の人夫を寄せ集め

古見(くん)ぬ浦(うら)に渡(わた)りょーり
美与底(みゆしく)に移(うつ)りょーり

全人夫は古見浦に渡り
全賦役者(ぜんふえきしゃ)は美与底(みゆすく)に移り

女子(みどぅなー)や石持(いしも)ち
男子(びふなー)や積(つ)ん添(す)い

女たちは石の運搬役を
男たちは石工役を担い

基強(もとづう)さ積(つぃ)んばし
幹強(みきづう)さ並(な)みばし

土台を強固に石積みあげ
基礎を堅固に築きあげ

積美(ついんぢゅ)らさ積(つぃ)んばし
並美(なみぢゅ)らさ並(な)みはし
石工巧(たく)みに積み上げた
技巧(ぎこう)見事に並べ立てた

15.先島スオウの木

「先島スオウの木」の碑
先島スオウの木(マメ科)
根本からいくつもの厚い板の
根っこが地上に突出している。昔は
船の舵にしたと伝えられている


「先島スオウの木」
三離御嶽

「先島スオウの木」の碑は、古見の三離御嶽の裏側の林の中にあります。
漢字でスオウは「蘇芳」と書くそうです。

16.古見のサキシマスオウノキ群落の説明看板

天然記念物指定碑

説明碑文


天然記念物 古見のサキシマスオウノキ群落
                             昭和53年3月22日指定

サキシマスオウノキはこの三離御嶽の拝殿の、後方にあり、ヒルギ林と斜面のビロウ群落の間に発達しています。
サキシマスオウノキはアオギリ科に属し、板根がよく発達する常緑の高木で熱帯地域から甘み大島まで分布していますが、この三離御嶽の群落が我国ではその規模において一番大きい。
 本群落のサキシマスオウノキは樹高13m、棟高直径75〜85cmの木が主でそのすべてに板根が見られます。板根は文字通り板状でそれが分枝、湾曲し、大きなものでは高さ3m長さ6mに達するものもあります。
 本群落は熱帯を思わせる景観であり植物生態、形態学的に貴重なものであります。
 なお、この地域で許可を得ることなく現状を変更し、または、保存に影響を及ぼす行為をすることは法律で禁じられています。
                            文部省
                            沖縄県


※古見のサキシマスオウノキ群落は、国の天然記念物に指定されているほか、
 新日本の名木100選にも選定されています。
古見のサキシマスオウノキ群落遊歩道 説明看板

 古見のサキシマスオウノキ群落周辺とそこに至るコース周辺の貴重な生態系の保護を図るため、ならびに三離御嶽に踏み入らないことを目的として遊歩道(木道)が2010年春に設置されています。

17.古見の浦節の碑

古見の浦節の碑


古見の浦の八重岳
八重かさひ みゆしく
いつん見ぶしゃばかい
桜花ぶなれま
梅の花 みやらび
いつん花ゆさかい
袖ふらば里之子
沈伽羅ぬ匂いしようる
いつん すまる匂い
碑の前の浜

この碑は古見小学校向かいの道を海岸側に下った所にあります。

18.感謝記念碑

感謝記念碑

下部碑文
【表面
感謝記念碑

【側面】
一九五三年六月
琉球民政副長官
オグデン少将御
来島の際八重山
開発援助のため
仲間野原道路工
事費として百万
円賜った御厚意
に對し此の碑を
建てて感謝の意
を表します。
一九五四年二月
 八重山地方庁長
 高嶺世太
 西表島民一同

当時の琉球政府の財政は大変乏しかったため、米国民政府に要請して資金援助を受け道路建設を行った歴史があります。そのことから今でも当時の民政府関係者の名前をつけた道路がいくつかあります。オグデン道路は、西表島の古見一帯と、石垣島の米原地域(川平〜桴海間)で名が残っています。

この碑は古見集落の最北部(旧道沿い:ゆうわむらの東側)に建てられています。

19.ESSAYONS L.Z

ESSAYONS L.Zの碑
ESSAYONS L.Z
CONSTRUCTED by
ENGINEER DETACHMENT
2°ABC INF.C.T
20 APRIL 1962

この碑は昔米軍が野原崎で軍事演習を行ったことを記したものと言われていますが、詳細については不明です。かつては野原崎に米軍の着陸地があったと言われていて、碑のL.Zは、landing zone(滑走路)の略かと思われます。
碑 遠景

この碑は小浜島を眺める野原崎の展望台横に建てられています。向かいは小浜島。

20.船浦のニッパヤシ群落の碑

船浦のニッパヤシ
群落の碑



【石柱】
天然記念物 船浦のニッパヤシ群落
昭和四十七年五月十五日指定

【プレート】
天然記念物 船浦のニッパヤシ群落
         昭和47年5月15日指定
ニッパヤシは、インド、マレーシア、ミクロネシアなど熱帯に分布域をもつ種で台湾を通り越して、一足飛びにここ西表島船浦と内離島にだけみられます。
この地域のニッパヤシ群落はヤシミナト川のマングローブ林内にあります。
本種は、無茎のヤシで葉は根生し、長さ10mにも発達しそれが水中から突出ている様子は、周囲のマングローブ林とともに特異な景観をしています。
この植物群落は、世界における分布の北限地となっており、植物生態分布地理学上貴重な群落であります。
なお、この地域において許可を得ることなく現状を変更し、または、保存に影響を及ぼす行為をすることは法律で禁じられています。

ニッパヤシ群落

ニッパヤシ群落は船浦湾内の奥に30株弱の本数が生えています。

21.船浦のニッパヤシ植物群落保護林の概要看板

船浦のニッパヤシ植物群落
保護林の概要看板


この看板は船浦橋の船浦側の、西側の枝道を少し下った所にあります。前項も同様。

船浦のニッパヤシ植物群落保護林の概要
目的

 国内では、当保護林と西表島内離島の2箇所だけしか生育していないニッパヤシを保護する目的で設置されたのが当保護林です。
 ニッパヤシは、名前の通りヤシ科の植物ですが、研究者によっては150属1,500種とか236属3,400種とか報告されているように分類の難しいヤシ科の中にあって、ニッパヤシ属に分類されているのは本種1種、すなわち1属1種のヤシです。本種は熱帯アジアのフィリピン、ベトナム、インド、マレーシア、インドネシアと内離島以外には生息していないことから、個体数が少ないこと、また、本種の世界分布の北限であることから植物地理学上も貴重な植物群落であります。
 ニッパヤシはヤシ科植物でありますが、茎が泥の中にあるので、幹は地上に出て無く、泥の中から葉が出ているのが特徴的なヤシであります。
 当保護林にはニッパヤシ以外にヤエヤマヒルギ、オヒルギ、シマシラキ等で構成されていますが、当保護林内のニッパヤシは、国指定天然記念物、絶滅危惧U類(VU)に指定されており、その消滅が危惧されることから、学術的に貴重な本種の個体の維持を目的として保護林として指定されています。
所在地
 沖縄県八重山郡竹富町 上原国有林208林班は小班
設定年月日
 平成15年3月31日
面積
 4,38ha
関係森林管理署等
 沖縄森林管理署 TEL(098)868-8829
 祖内森林事務所 TEL(0980)85-6201
保護林の概要
 当植物群落保護林は、西表島船浦の南東部に位置し、マングローブ林の発達したヤシ川河口から約600m上流の左岸林縁にあり、生育面積は約300uである。周辺は満潮時に海水が浸かる泥湿地帯となっており、優先種としてオヒルギがある。また、ヤエヤマヒルギ、シマシラキの混生したマングローブ林が発達しています。

現況
 標高:0m
 樹種:ニッパヤシ周辺の植生
 「オヒルギ、メヒルギ、ヤエヤマヒルギ、ミズガンピ、イボタクサギ、アダン、ハテルマギリ、テリハボク、クサトベラ」
 林齢:30年生以上
法指定等
 天然記念物
保護・管理・利用計画
 極相にあるものは原則として自然の水位にゆだね、遷移の途中にあるものは現状の維持に必要な森林施業を行う。また、モニタリング、学術研究その他公益上必要な行為、非常災害のため応急措置として行う行為、軽微な施設の設置、その他法令等の規定に基づく措置を行うこととしています。


22.北岸道路開通記念之碑

北岸道路開通記念之碑
碑文


[表面文]
北岸道路開通記念之碑
 竹富町長 瀬戸 弘
[裏面文]
西表島北岸道路碑文
 西表島は古来東西を結ぶ道路がなく 同じ
島一つでありながら 互いに陸の孤島同然
東西の用を便するには手漕ぎのクリ舟または石
垣島経由の機帆船を頼り 緊● 荒天に際し
ては汀を伝い 岬を踏み分け 着衣を頭上に
かざして河川を渉るなど 筆舌に尽せぬ危険
と困難を極め 生き抜いてきた
 県内第二の大きな島 眠れる宝庫などと 世
に定伝されながら道なき故に久しく原始 木
闇のままにあった
 西表島の開発なくして竹富町の発展なしと
して その根幹とする北岸道路の開通実現は
地元住民並びに議会と共に 根気強く陳情を
重ねてきた 漸くにして昭和四十四年着工
遂には祖国復帰記念事業として多額の国庫
出金を獲得し 県道二一五号白浜南風見線の
開通を実現した ここに政府県に対し深い
謝意を捧げると共に 将来の西表島の開発と
竹富町の発展を記念して碑を建て永く記念と
する
昭和五十二年四月二十六日
竹富町長 瀬戸 弘


●は判読不明
北岸道路開通記念之碑

この碑は船浦港前の上り坂右手側に設置されています。碑文は裏面にあります。周囲が木々に覆われたため少し分かりづらくなっています。

23.でんさ之碑

「デンサ節」の碑 碑文

※ デンサ節は西表島の上原に伝わる教訓歌です。西表島・上原村の与人(役人)が、風俗の乱れを戒める為の歌を「宮良里賢」に依頼し1768年に作られたとされています。
 西表島・上原集落では毎年、秋に「デンサ節大会」が行われています。歌唱の優劣を競う他に、最近では「作詞の部」も評価対象にされ、毎年新しい歌詞が作られています。
益茂姓第五世
宮良里賢上原興人之時 作詞作曲
デンサ節
一.上原(ウイバラ)ヌ デンサ 昔(ムカシィ)カラヌ デンサ
  島ヌアル マディヤ イチィン 變(カワ)ラヌ
一.デンサ節 作(チィク)リ 童子(ワラビン)ケニ 言(イ)ザシ
  世間(シキン)ヌ戒(イマ)シミナルスドゥ バンヤ願(コガ)ユル
一.車ヤ三寸(ミフシ)ヌ 楔(クサビ)シド 千里(シンリ)ヌ道ン 通(カ)ユル
  人ヤ三寸ヌ舌(シタ)シドゥ 大體(ウフドウ)ヤ 食(ファ)イシティ
一.島持(シマム)チィドゥ 家持(ヤム)チィ 船乗(フニヌ)リィドゥ ユヌムヌ
  勢頭舟子(シドウフナグ) 親子(ウヤフア) 揃(ス)ラネバナラヌ
一.親子(ウヤフア)カイシャ 子(フア)カラ 兄弟(キョウダイ)カイシャ 弟(ウトゥドゥ)カラ
  家内(キナイ)持チィカイシャ 嫁(ユミ)ヌ 子(フア)カラ
                                刻字 石垣里中
(大意)
一. 上原のデンサ節(教訓歌)は昔から言い伝えらている教訓歌である。
  (略)
一. デンサ節を作って青少年達に言い聞かせ、社会の戒めになることを願っている。
一. 車はわずか三寸の長さの楔で千里もの距離を走ることができる。人は三寸の長さの舌で、余計なことを言い人生を台無しにすることもあるので、物を言うときは慎重にしなければならない。
一. 国(村)を治めることも家族の営みも船を操ることと同じである。船頭と船子のように親子の気持ちが揃っていなければならない。
一. 親子のよい関係は、子供から進んで貢献することから築かれる。兄弟のよい関係は弟の出方で築かれる。円満な家庭は嫁の気遣いと調和から築かれる。
でんさ之碑 遠景

この碑は上原港(デンサターミナル)の北側、民宿カンピラ荘の裏手にあります。
左手奥に「デンサの碑」の野外ステージがあります。

24.住吉 入植記念碑

住吉 入植記念碑 碑文

碑建立の辞
第二次大戦による郷土の荒廃と食糧難はその極
に達し復員、引揚者の職もなく、混沌たる
世相であった。時の宮古民政府は、宮古郡
島での公共施設、住宅等の建築資材を獲得
するため伐採隊を派遣し、併せて食料補給
隊として当地区、宇奈利崎一九五番地の利用権
を得て、ここに開拓隊を入植せしめた。
その後、琉球政府でも八重山各地に計画移民を
行ったが住吉部落はそのはじまりであった。
マラリヤやジャングルと戦って住吉部落の基
礎を作った開拓隊員の名を印して記念とする。
・・・以下略・・・
入植記念碑 遠景

この碑は住吉公民館の隣(同一敷地内)にあります。

25.いのちの泉

いのちの泉の碑

碑の左隣が井戸(いのちの泉)です。
入植当時 唯一の井戸
いのちの泉
入植六十周年記念事業
平成二十年十月吉日
住吉神社

いのちの泉は、住吉神社のすぐ隣の下った所にあります。

26.浦内橋の碑

浦内橋の碑

浦内橋の碑 遠景


浦内橋の碑
 浦内川は県下最大の長流で古来交通の要衝にありながら橋がなく 一般の通行農耕の往来に支障をきたし 西表島の開発に大きな障壁となっていた
 西部地区ではここに渡場を設け 渡守をおき リク舟をもって往来の便を図ってきたが夜間または悪天候に際してはなお幾多の困難を伴い 人命にかかわる痛ましい事故もあり時には渡守の中絶する時期もしばしばあり言語に尽せぬ多くの苦労を背負ってきたのである 本町では歴代の村 町当局 議会 地元住民と共に 西表開発の一環として 浦内川の架橋陳情を叫び続けてきた
 多額の国費と二年余の歳月をもってこの橋を架け 東西の交通を便じ 島の前途に曙光を見るに至った ここに西表島の開発と竹富町の発展を期して碑を建て もって記念とする
 一九七〇年三月十五日
 竹富町長 瀬戸 弘
浦内橋遠景@

浦内橋遠景A


同 工事概説
工事概説
一.総工費 七拾五萬二阡四百四拾貮ドル
一.工期  自 一九六八年一月一六日
        至 一九七〇年二月二二日
一.工事発注者 琉球政府
一.工事施工者 国場組
一.工事概要
(イ) 橋 長さ  二七二・一米
      巾   七・〇米
(ロ) 取付道路 長さ 三二一七・九米
          巾  七・〇米
(ハ) ガードレール 七七二米
一.橋型 合成桁橋
この工事概説は、浦内橋の碑の裏面に記されています。
これより、浦内橋は本土復帰前に架橋されたものであることがわかります。

27.イリオモテヤマネコとの共生のために

「イリオモテヤマネコとの
共生のために」の説明看書

イリオモテヤマネコとの共生のために
 イリオモテヤマネコは西表島だけに生息する野生ネコで、その数は約100頭と推定され、絶滅が危惧されています。標高の低い、島の周辺部の森林や湿地が重要な生息地になっており、鳥類、ヘビ、カエル、ネズミからコオロギなどの昆虫類まで、非常に多様な小動物を食物にしているのが生態上での特徴です。
 イリオモテヤマネコの生息地は人間の生活圏と重なることも多いので、将来にわたって共生するためには、交通事故の防止やペットなど外来生物の管理、生息環境の保全など様々な努力が必要です。
 国ではイリオモテヤマネコを「種の保存法」に基づく国内野生動植物種に指定し、生息状況のモニタリングや事故防止対策などの「保護増殖事業」を実施しています。
 イリオモテヤマネコに関する問い合わせや生息情報(目撃やフン・足跡等の痕跡など)がありましたら、次の関係機関までご連絡下さい。
 林野庁 沖縄森林管理署
         大原森林事務所(大原)TEL.0980-85-5308
         祖内森林事務所(祖内)TEL.0980-85-6201
 環境省 西表野生生物保護センター(古見)TEL 0980-85-5581
                      (24時間ヤマネコ緊急ダイヤル)

頭:耳の先が丸く、耳の後ろに目立つ白い斑点があります。
背:体に斑紋の模様があります。
尾:尾の先まで太くなっています。
浦内橋を右岸から

この説明書は上原から白浜方面に向かい、浦内川の手前(浦内川観光への入口近く)に立てられています。

28.萬骨碑

萬骨碑


西表炭坑は一八八六(明治十九)年に開坑 以来元成屋や内離島を中心に九州沖縄台湾から多くの坑夫が採炭に従事 炭坑独特の納屋制度のもと強制労働が行われた 宇多良炭坑は一九三六(昭和十一)年に丸三炭坑が開坑 当時としては近代的設備を備えていた しかし太平洋戦争勃発後増産による過酷な労働とマラリアのため幾多の犠牲者を出した 二〇〇七年宇多良炭坑跡は近代化産業遺産群に認定された ここに坑夫の功を讃え犠牲者の霊を弔う碑を建立する
                  二〇一〇年四月一日
                  萬骨碑建立期成会
萬骨碑

この碑は旧宇多良炭鉱跡への遊歩道の奥にあります。

29.マリュドゥの滝(日本の滝100選)

「マリュドゥの滝(日本の滝
100選)」の説明書

マリュドゥの滝(日本の滝100選)
 西表島西部を流れる浦内川上流に位置し、豊富な水量が特徴で、カンビレー(マリュドゥの滝より上流に位置する滝)から流れ下る滝の落差は20メートルで2段になっています。水飛沫を千丈に上げて丸い滝壺に流れ落ちる景観や轟音が壮観な自然美を映し出しています。
 
また、滝周辺には亜熱帯特有の木生シダが林立し、直径130メートルの滝壺がたたえる水の色は見る人の心をとらえてやみません。
 
「西表島の民俗」では、マリの言語はマーリ(廻ること)であるとし、滝壺に落ちた水が廻るからと説明されています。(ユドゥとは淀みであろうとおもわれる)これらのことから、マリュドゥとは、「丸い淀み」の意味と言われています。
マリュドゥの滝

この説明看板はマリュドゥの滝の展望台(東屋)のそばにあります。

30.星立天然保護区域

星立天然保護区域指定碑

説明碑文


天然記念物 星立天然保護区域
                            昭和47年5月15日指定
 この保護区域の大部分は、ヤエヤマヒルギ、オヒルギ、メヒルギ、ヒルギモドキ、ヒルギダマシなどの種を中心としたマングローブ林であります。
 このマングローブ林内にはミミモチシダが自生しています。このシダは熱帯の海岸湿地に自生する常緑の大形のシダでフィリッピン諸島から台湾を飛び越して分布しています。
 また、このマングローブ林の後方の星立御拝には、一属一種で西表島と石垣島の固有種であるヤエヤマヤシが自生しています。そして、動物ではオキナワアナジャコが生息し、小川にはシレナシジミ、ガザミ類が多く生息しています。
 このように、本指定地は動・植物生態、分布地理学上貴重な地域であります。
 この地域において、許可を得ることなく現状を変更し、または、保存に影響を及ぼす行為をすることは法律で禁じられています。
                                     文部省
                                     沖縄県


※この指定碑は星立(干立)集落入口に設置されています。
ヤエヤマヤシ群落


31.干立の節祭の碑

干立の節祭の碑

国指定
重要無形民俗文化財の碑
干立の節祭
平成三年五月八日指定


※この碑は、干立の中心的な御嶽であるフタデウガンのそばに建っています。
 碑のすぐ前は海(マイヌハマ)となっています。

※ 節
祭は「しち」と呼びます。
フタデウガン

32.節祭 文化財指定記念碑

節祭 文化財指定の碑

【表面・下段拡大】

【表面・上段】

文化財指定記念碑

【表面・下段】
第二九六号
重要無形民俗文化財指定証書
西表島の節祭
西表民俗芸能保存会
文化財保護法第五十六条の十の
規定により重要無形民俗文化財
として平成三年二月二十一日文部大臣に
より指定されました
平成三年五月八日
文化庁長官 川村恒明


【裏面】
平成三年十一月建立
祖納公民館
遠景

【裏面拡大】

この碑は祖納集落をぬけた「まるまぼんさん」を望む海岸沿いに建てられています。

33.慶来慶田城翁屋敷跡の碑

慶来慶田城翁屋敷跡の碑
(高柱)


慶来慶田城翁屋敷跡の碑
(低柱)


【高柱】
記念物 慶来慶田城翁屋敷跡
指定 昭和四十七年八月三十日
建設 昭和四十八年二月二十八日
●財調査委員会


【低柱】
慶来慶田城翁屋敷跡
慶来慶田城用緒西表首里大屋子は 平
久保加那按司を征伐また孫の用尊(同役)は
漂着したオランダ船を救援した



※慶来慶田城用緒(けらいけだぐすくようしょ)は、平家の末裔と言われ、1500年前後に祖納の上村に移り住み、石垣島の平久保加那按司(ひらくぼかなあじ)を征伐したと言われています。首里王府に反旗をひるがえしたオヤケアカハチの戦い(1500年)でも活躍しました。

設置状況

この碑は屋敷入口の道路のそばに建てられています。

慶来慶田城翁屋敷跡

34.長寿坂の歌

長寿坂の歌

長寿坂の石碑

【上段】
長寿坂の歌

     作詞書 木原 実
     作曲   那根 格
歴史は照らす 長寿坂
眺めあきない 祖納岳
美酒に酔うのも 無理はない
組めよ躍れよ  サァ
シマおこし シマおこし
  昭和六十一年五月五日
【下段】
長寿記念
花城マナシ(九十七歳)
贈 照美組

【長寿坂の石碑】
長寿坂

長寿坂

この碑は祖納集落の西側に建てられています。

35.記念物 タブの老木

「タブの老木」の碑

【高柱】
記念物 タブの老木
指定 昭和四十七年八月三十日
建設 昭和四八年二月二八日
竹富町教育委員会

【低柱:解説板】
タブの老木
高台にありながら長年強風に耐え
横綱の風格を思わしめる巨木である
周囲四米三〇、高さ一〇米、樹令二百年

 西表島の祖納の歴史を見つめてきたタブの老木で、大竹御嶽の境内にあるご神木です。長年に渡る風雨に耐え、老樹の風格を漂わせています。あたり一帯は、クバの群生になっていますが、その中に一本だけこのタブの老木が立っています。
 推定樹齢は240年、幹は二股に分れていて周囲は4.3mと0.9m、高さは9mに達しています。

遠景

この老木は祖納集落の中心から、旧道を上った山の手(旧集落内)にあります。

36.記念物 大竹祖納堂儀佐屋敷跡

大竹祖納堂儀佐屋敷跡

碑柱

【高柱】
記念物 大竹祖納堂儀佐屋敷跡
指定 昭和四十七年八月三十日
建設 昭和四八年二月二八日
竹富町教育委員会

【低柱:解説板】
大竹祖納堂儀佐屋敷跡
与那国島を発見した人、祖納部落の
豊年祭は彼を祀った大岳御嶽を
中心に催されている

 ここは、中国大陸から鉄を持ち込み、鍛冶を始めた大竹祖納堂儀佐(おおたけそのどうぎさ)の屋敷跡です。祖納集落の中心から、旧道を上った山の手(旧集落内)に位置しています。(少し分かりづらい場所です。)

屋敷跡遠景

同反対方向

37.太平井戸

太平井戸

説明碑文

【コンクリート柱】
竹富町指定 有形民俗文化財 太平井戸
平成10年3月31日指定 竹富町教育委員会

【解説板】
 竹富町指定有形民俗文化財
 太平井戸(ウーヒラカー)
 この井戸は、伝承によると今から約500年前、まだ祖納
の集落が祖納半島の高台「上村」にあった当時、高台で水に
不自由していたところ、慶来慶田城用緒がこれを解消するた
めに掘ったものといわれています。 その後、飲料水用の井戸
として祖納の人々の生活を支え続けてきたことから水恩に感
謝する儀式が行われるようになり、今日では、節祭の3日目
に水恩感謝の儀式と奉納芸能がこの大平井戸で行われます。
   指定年月日 平成10年3月31日
   竹富町教育委員会

遠景

井戸外観

この井戸は新盛家住宅の近くにあります。

38.鳥獣魂供養の碑

鳥獣魂供養の碑

鳥獣魂供養の碑

猟友会八重山支部
西表島西部会
平成十三年二月建

裏面

この碑は「祖納の森」への道の途中にあります。

39.西表トンネル工事の石の碑

西表トンネル工事の石の碑

 この石は、西表トンネル工事に伴い、坑内から
ズリとして搬出された砂岩と頁岩である。
 今から約2000万年前、新生代第三紀の
中新世に堆積形成された岩石で八重山層郡
西表層に属する。
         1992年6月

同碑設置状況

この碑はトンネル白浜側出口の、西側すぐの所に建てられています。

40.西表トンネルのプレート

西表トンネルのプレート
西表トンネル
1992年6月
沖縄県
延長675m 幅9.25m
高さ4.5m
施工 (株)國場組  ・(株)大城組
    南洋土建(株)・(株)唐真組   建設工事共同企業体
プレート取付状況

このプレートは白浜側出口に取り付けられています。

41.水準点

水準点(No.11237)の
説明書き

水準点
 この標石は、高さの基準を表す水準点です。
 この水準点(No.11237)は、西表島験潮原点から水
準測量を行い高さを決定しています。
 水準点は、主要国道等に沿って約2kmごとに設置され、全
国で約2万点、沖縄県には約400点が設置されています。
 水準点は、各種測量等の高さの基準となるほか、定期的に測
量を繰り返すことによって、地盤沈下や地殻変動等の監視にも
役立っています。
  国土地理院 沖縄支所
水準点(No.11237)

この水準点は、白浜の竹富町子午線モニュメントの横にあります。

42.竹富町子午線モニュメント

竹富町子午線モニュメント
説明書き


【左側のプレート】
竹富町子午線
モニュメント
1997年、竹富町西表島に123°45′6.789″の子
午線が通っていることが、国土地理院沖縄支所によ
り発見されました。この子午線はここ白浜と向かい
の祖納の地を通っています。123°45′6.789″の
時間を西表の大地に刻む日時計のモニュメントの意
味を、祖納の「竹富町子午線ふれあい館」でもお確
かめください。


【右側のプレート】
この竹富町子午線モニュメントは
宝くじ普及宣伝事業として整備されたものです。
平成10年3月
寄贈 財団法人 日本宝くじ協会
竹富町子午線モニュメント
(東側より)

(同西側より)

このモニュメントは、白浜小中学校正門前の広場に建てられています。

43.イリオモテヤマネコ発見捕獲の地

「イリオモテヤマネコ
発見捕獲の地」の碑

イリオモテヤマネコ発見捕獲の地
国の天然記念物イリオモテヤマネコは一九七四年(昭和五〇)三月十七日午前三時頃、この地で鶏を襲って小屋に入ったところを池田稔によって、発見・捕獲された。
この碑がある場所は、船浮集落の資料館「西表館」所有者の池田さん宅の裏庭です。

※ 1974年は昭和49年のはずですが・・・?! また、発見・捕獲されたのが、この地で「初めて」とは書かれていません。 
 実は、1965年に動物作家の戸川幸夫氏が頭骨と毛皮の標本を入手し、1967年に研究のために2頭が仲間川中流域と仲間山で生け捕られ、新属新種のイリオモテヤマネコとして学会に発表されました。
 島の人達には古くから知られていて、「ヤママヤー」「ヤマピカリャー」「ピンギーマヤー」などと呼ばれ、時には食用にもされていたそうです。(マヤとはネコの意味です。)

44.東郷平八郎上陸の地

「東郷平八郎上陸の地」の
説明書
東郷平八郎(とうごうへいはちろう)上陸の地
明治三八年五月、ロシアのバルチック艦隊を全滅させるという責任を負うた東郷大将は、駆逐艦で台湾・八重山・宮古・大島・九州などの要港に立ちより船浮港にひそかに立ち寄った大将は、民家にも立ちより次呂久のばあちゃんの差し出したラッキョウとお茶を召しあがり、後に御礼の葉書きをよせられました。大将の作戦は成功し明治三八年五月二十七日、バルチック艦隊は全滅した。日露戦争秘史(次呂久校長談より)
この立札は、船浮集落の資料館「西表館」近くにあります。

45.カマドマの碑

「カマドマの碑」


民謡「殿様節」の歌詞
うきゆになとたるこいの
氏神すないのとのさま
ばんどやゆる
カマドマぬことば思いど
ふなきにいくよば

ふなうき村千寿万才
クバデサぬしちやにうりて
しにぬやむけん
●ぶしぬやむけん
たちまちぶだんよば

あまぬにたさ てるてだん
やみなすだぎよば
としきぬしんさん クバデサば
かいだぎぶんよば

●は判読不明
【歌詞現代訳】

浮世に名を取った
恋の氏神祖納の殿様は
私である

カマドマの事を思って
船浮に行くよ

船浮村は千秋万歳
クバデサの下にいて
脛の痛むまで
膝の痛むまで
立って待っていたよ

あまりの妬ましさに照る太陽も
闇になすほどだ
たいそうのつらさにクバデサを
かき抱いている
殿様節由緒
カマドマは船浮村の生ま
れで絶世の美女として当時
の役人から望まれた女
性である。
殿様は祖納村の石垣
高端である。 生れつき
美男子で大和の殿様
とあだ名をされた程であ
った。 この二人の恋い物
語を歌ったのがこのう
たである
高端は明和六年五月四
日で生れで文化元年船
浮役人を命ぜられカマ
ドマに心酔したが文化二
年正月一日紙漉所役人
になられた
これを石垣用典氏が
作詞したものである
文化のころであるから
今から百五十年前
である

※この碑は1957年9月、区長池田稔氏、公民館長井上文吉氏等々により建立されました。
 「カマドマ之碑」の下段(基礎部)には、船浮村の絶世の美女カマドマと、祖納から通う殿様の恋愛模様が記されています。
 カマドマはこの碑の横に立つクバサデ(モモタマナ)の古木の木陰で、膝が痛むまで殿様を待ち続けたといわれています。
この碑は、船浮集落内のカマドマ広場にあります。

46.上の川

「上の川」の説明看板

上の川(ウイヌカー)
上の川は古くから船浮村の水瓶として人々の生命を守り農業(稲作)を育んできた。
炭坑時代(明治)には上の川の水は良質で療養に効果があるといって訪れる人が多かった。
丸い水留めは永い間、洗濯のすすぎ場として使用されてきた。
上ぬ川(カー)ぬ水(ミジ)
しじ水どぅやりば
御万人
(ウマンチュ)ぬまぎり
(ア)みてぃ しでぃら
(訳)上の川の水は湧き水でおいしいよ 皆さんそろって水あびをし若かえろうよ
管理 船浮公民館
上の川

船浮集落からイダの浜への道の途中にあります。

 

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