石垣島の碑文・説明看板  更新 2011.12.17

下表の青字の部分が今回追記した個所です。
No. 名 称 場 所
1. 権現堂 石垣
3. 八重山音楽先師顕彰碑 石垣・バンナ岳
5. 八重守之塔 石垣・バンナ岳
7. 宮良長包顕彰碑 新川
9. 唐人墓 新川
11. 平和祈願之碑 新川
13. ラムサール条約湿地 名蔵アンパル 新川
15. ほほえみの鐘 新栄町
17. 真栄里アーンヌカー跡 真栄里
19. なかどぅ道ぬとぅばらーま歌碑 登野城
21. 道路元標 登野城
23. 大濱信泉像 登野城
25. 尖閣列島開拓記念碑 八島町1丁目
27. オヤケアカハチ顕彰碑 大浜
29. 明和大津波遭難者慰霊之塔 宮良
31. 宮良川のヒルギ林 天然記念物指定碑 宮良
33. エジンバラ公訪問記念碑 白保
35. 柳田国男 歌碑 白保
37. 国指定名蔵アンパル鳥獣保護区 元名蔵
39. 黒蝶真珠養殖発祥の地 川平
41. 川平観音堂 川平
43. 伊波南哲詩碑 川平
45. 電信屋 川平
47. 肥田埜勝美 歌碑 桴海
49. 米原のヤエヤマヤシ群落 米原
51. 星野入植記念碑 星野
53. 玉取崎園地の説明看板 伊原間
55. 明石開拓之碑 赤石
55. ミバエ根絶之碑 平得
No. 名 称 場 所
2. 桃林寺仁王像 石垣
4. 八重山戦争マラリア犠牲者慰霊之碑 石垣・バンナ岳
6. 石垣氏庭園 新川
8. 八重山キリシタン事件 殉教の地 新川
10. 平和祈念碑 新川
12. 米軍飛行士慰霊碑 新川
14. 新生井戸之碑 新川
16. 真栄里節の碑 真栄里
18. 開拓之碑(於茂登) 真栄里・於茂登
20. 八重山島蔵元跡 登野城
22. 人頭税廃止百年記念の碑 登野城
24. 鷲ぬ鳥節 発祥の地 大川
26. オヤケアカハチ之像 大浜
28. 史跡 フルスト原遺跡 大浜
30. 赤馬の由来 宮良
32. 真謝井戸 白保
34. 舟溝開砕記念の塔 白保
36. 仲間満慶山終焉之地 元名蔵
38. 川平湾の人魚物語 川平
40. ばしゆんた(鷲ゆんた)の碑 川平
42. 史跡 川平貝塚 川平
44. 底地海水浴場の説明看板 崎枝
46. 荒川のカンヒザクラ自生地 桴海
48. 桃里恩田遺跡 桃里
50. 伊野田入植記念碑 伊野田
52. 久松五勇士上陸之地 伊原間
54. アイナマ石 久宇良
56. 暁之塔 平得

1.権現堂

権現堂の碑文

権現堂(ごんげんどう)
     重要文化財
     国指定 昭和56年6月

 薩摩藩が尚寧王に寺社の建立を進言したことから1614年(慶長19)桃林寺と同時に創建された 祭神は熊野権現を勧請したもので 八重山における寺社建立のはじめであり 貴重な文化遺産である 切妻造りの薬医門 室内に土間を取り込み両脇に祭壇を配した拝殿 棟上の火焔宝珠 竜頭等細部手法に特色をもつ神殿からなり それぞれが軸線上に建造されている 御神木の宝鏡は銅製で琉球最古のものといわれ ほかに木彫りの仏像も併祀されている 1771年(明和8)の大津波により潰滅したが 1786年(天明6)に再建された その後 1882年(明治15)神殿を改建 1910年(同43)に一部修復された 太平洋戦争で大破したが1947年(昭和22)に修復 1973年(同48) 1978年(同53)に部分修理を加え 1985年(同60) 薬医門 拝殿 扉絵を含む神殿及び石牆を修理した
     昭和61年1月吉日
     石垣市教育委員会
権現堂

権現堂は市内・石垣地区にあり、隣は桃林寺です。

2.桃林寺仁王像

説明書き
吽形像:密迹力士

門の左側の口を閉じた像です。
阿形像:金剛力士

門の右側の口を開いた像です。
重要文化財(美術-彫刻)
桃林寺仁王像 二
元文二年(西紀一七三七年)文明氏久手堅仁屋昌忠の作。補佐役は上官氏川平仁屋正肖及び松茂氏小濱仁屋當明の両人。用材は八重山産ドシヌ(おがたまの木)である。
本像は戦前斯道の権威鎌倉芳太郎氏及び伊東忠太博士によってその芸術的価値を斯界に紹介された。
像は向って右は密迹力士、左は金剛力士である。
一.所在地 石垣市字二八五番地 桃林寺山門
一.文化財指定 一九五六年二月二十二日
一.管理者 桃林寺
社団法人 八重山観光協会


日本最南端寺院、八重山桃林寺の仁王像。現地産オガタマノ木を用いた寄木造りで琉球の人によって制作された現存最古の仏像。そのみなぎる力は堂々たるものである。
桃林寺の門


3.八重山音楽先師 顕彰碑

八重山音楽先師 顕彰碑

先 師
真謝与人  用  格
高那与人  英  任
崎山与人  用  宗
小浜与人  英  暢
野底与人  英  普
真謝与人  英  敬
大浜仁屋  英  成
若文子    英  恕
講談師匠  安室孫師
当銘仁屋  由  教
石垣大首里大屋子 大浜用能
石垣仁屋  信  演
この碑は
八重山古典三味線音楽
先師の業績を永く
後世に顕彰するため
建立したものである
昭和四十五年二月十日
顕彰会建立期成会
会 長    糸数用著
副会長   漢那 長助
副会長   大濱 津呂
事務局長 桃原 用知
八重山音楽先師 顕彰碑は、「八重山戦争マラリア犠牲者慰霊之碑」の隣に建てられています。

4.八重山戦争マラリア犠牲者慰霊之碑

八重山戦争マラリア
犠牲者慰霊之碑の碑文


八重山戦争マラリア犠牲者
慰霊之碑

 太平洋戦争の末期、沖縄県八重山地域においては軍の作戦展開の必要性から住民が悪性マラリアの有病地域である石垣島、西表島の山間部への避難を強いられ、過酷な生活の中で相次いでマラリアに罹患し、三千余名が終戦前後に無念の死を遂げるに至った。
 国は、終戦から五十年を経た平成八年度に、これら犠牲者の御霊を慰めるため、沖縄県へ「八重山地域マラリア死没者慰霊事業」の助成を行った。
 この碑は同事業の一環として遺族等からなる「沖縄戦強制疎開マラリア犠牲者援護会」の協力を得て建立されたものであり、遺族がその思いを込めて御霊の名を小石に記し碑の中に納めてある。
 この碑が八重山の戦争マラリア犠牲者の御霊を慰め、その悲惨さを後世に永く伝え、世界の恒久平和創造への礎となることを祈る。
平成九年三月二十九日
沖縄県知事 大田昌秀
協力 沖縄県強制疎開マラリア犠牲者援護会
     会長 篠原 武夫
意匠      潮平 正道
揮毫      玻名城 泰雄
八重山戦争マラリア
犠牲者慰霊之碑




八重山戦争マラリア犠牲者慰霊之碑は、バンナ公園入口に建てられています。

5.八重守之塔

八重守之塔碑文


合祀碑文

八重守之塔碑文
独立混成第45旅団隷下の各部隊は海軍の警備隊とともに八重山群島同胞と相携えて米軍の本土進攻に備えこの島に鉄壁の守備を整う。 昭和20年4月米軍沖縄本島に上陸するや孤立無援となり間断なき砲爆撃のもと食料等の補給全く杜絶しあまつさえマラリアのしょうけつ苦しき中に全将兵並びに関係住民は渾然一体となり堅忍不抜の意気に燃え死生を超越してよくその任を全うせり。 ここに南方同胞援護会の助成を得て碑を建て戦陣にたおれし勇士670柱の霊を慰め永くその功を世に伝う。
 昭和42年8月
 八重守之塔建立委員会

合祀碑文
昭和44年慰霊の日を卜してここに日露戦役より太平洋戦争に至る各戦役において戦陣に散華された八重山群島出身軍人軍属戦闘協力者ならびに学徒隊の英霊壱千余柱の八重守之塔合祀を奉告し謹んで慰霊の誠を捧げもって殉國の偉勲を永く世に伝う。�冀くば世界平和の礎となりて安らかに鎮まり給わんことを。
 昭和44年6月23日
 八重山市町村会
 財団法人 沖縄遺族連合会八重山支部

八重守之塔


八重守之塔遠景

右側が八重守之塔碑文で、左側が合祀碑文です。

6.石垣氏庭園

石垣氏庭園の碑文

石垣氏庭園
国指定名勝 昭和58年10月27日指定
 この庭園は、わが国の日本庭園のうち最南端にある庭園で沖縄の名園のひとつです。
 1800年頃八重山の大浜間切頭職の地位にあった石垣家の祖先である大浜親雲上のときにつくられたと伝えられています。庭園は琉球石灰岩を主な材料とし、五つの集団石組を北から南へと順に低く築いてあります。これらを石段や石橋をつなぎ、所によって枯れ滝を落し、岩島を配しています。
 のき下の左手には一群の石組み、右手には砂岩の手水鉢が置かれています。庭園の背後にはフクギ 築山にはソテツを植え込むなど、日本庭園の伝統様式を踏まえながらも、地方色豊かな枯山水庭園として独特の趣をみせています。
 この庭園は、八重山における近世上流階層の屋敷構えと庭園を知る上でも貴重であるばかりでなく、日本庭園の伝播をみる上でも価値のあるものです。
平成2年3月
文部省
沖縄県教育委員会
石垣氏庭園の門

石垣氏庭園は市内・新川地区にあります。

7.宮良長包顕彰碑

音楽家宮良長包
顕彰碑


同碑文



音楽家宮良長包
顕彰碑

宮良長包は 明治十六年三月現在の石垣市字新川に生まれる 明治三十五年三月八重山島高等小学校卒業 明治四十年三月沖縄県師範学校卒業 同年四月現在の登野城小学校訓導に任命され 大正四年四月沖縄県師範学校附属小学校へ転任 その後 沖西 小禄両小学校長を歴任して 大正十年四月沖縄県師範学校音楽教師に迎えられる 以来十七年間音楽教育に専念する傍 作曲活動に精進し幾多の名曲を発表する 昭和十四年六月那覇市で病死 享年五十六歳 長包は生来感受性強く音楽的天分に恵まれ 沖縄の教育音楽の基礎づくりと発展のために生涯を捧げ 多くの優れた人材を育成するとともに 当時郷土文化に対する蔑視と差別的風潮の中にあっていち早く伝統的郷土音楽の優秀性を確認してその神髄を極め 郷土の情緒と旋律を基調とした格調高い 個性豊かな宮良音楽を生みだした 彼の創作した幾多の名曲は広く大衆の中に普及浸透し 郷土への限りない愛着を人びとの魂に深く刻み込んだ
 暖かい愛情と感性豊かな教育者
 沖縄の教育音楽の先覚的指導者
 沖縄の心を発掘昇華した愛郷の芸術家
ここにその輝かしい偉業を讃え 生誕百周年を記念して顕彰碑を建てる

建立
1983年3月18日
宮良長包生誕百周年記念事業期成会
社団法人 八重山青年会議所
舟蔵公園

この碑は、舟蔵公園、通称、新川公園内にあります。公園の向かいには竹富島がよく見えます。

8.八重山キリシタン事件 殉教の地

「八重山キリシタン事件
 殉教の地」の碑


赤い琉球瓦の祠

左右に霊石があります。
八重山キリシタン事件 殉教の地
 一六二四年に石垣島冨崎の沖に漂着した宣教師ファン・デ・ロス・アンヘレス・ルエダ神父によって八重山にキリスト教がもたらされ嘉善姓一門を中心にひろまったが国禁であるキリスト教を信仰したとして「八重山キリシタン事件」と呼ばれるキリシタン弾圧事件がおこった。
 一六二四年、宮良親雲上永将は首謀者として当地(オンナー)において焚刑に処せられ、財産は没収。子孫は波照間島や与那国島、宮古島に流された。ルエダ神父は、琉球王国に連行されたのち粟国島へ流刑となり、そこで殺害された。
 一六二九年にはトマス・デ・サン・ハシン西六左衛門神父が日本への密航の途中に石垣島に立ち寄り、永将の弟宮良頭の永弘や大城与人安師と接触したとして翌年ふたりは琉球王国へ連行された。永弘は渡名喜島へ流刑となり、一六三五年に焚刑に処せられるが、安師は慶良間島へ流刑となった後に赦されて帰島する(一六四二年)。
 さらに、一六三八年には宗門改めの踏み絵により永将の弟の宮良与人永定がキリシタンとして永将同様当地(オンナー)で焚刑に処せられた。
 この一連の事件は薩摩侵入(一六〇九年)後の琉球唯一のキリシタン弾圧による殉教事件である。
 本宮良の主と呼ばれた永将翁が処刑されるときに歌ったとされるのが「大野ダキアヨウ」である。
 祠の中の霊石は、焚刑に処せられた本宮良の主永将翁と宮良与人永定翁のものと伝えられる。永将翁の紋所「四つ巴」は心の字数を表しているといわれる。
 二〇〇四(平成一六)年十月二二日(旧九月九日)
                      嘉善姓一門会
よく整備された庭

この碑は桃林寺の西方(79線沿い(新川54番地)にあります。

この事件をきっかけに、スペイン・ポルトガル船の来航を排除する海防体制が強化されました。また、薩摩藩・徳川幕府による琉藩支配が一段と厳しくなり、琉球王国が被支配者であることがより明確となっていきました。

9.唐人墓

唐人墓の碑文


唐人墓近景
石垣市唐人墓
この唐人墓には中国福建省出身者一二八人の霊が祀られている  中国人労働者(苦力)は、一六世紀以降世界各地に多数送り出されていた  一八五二年二月 厦門(モイ)で集められた四百余人の苦力(クーリー)たちは米国商船ロバート・バウン号でカリフォルニアに送られる途次 辮髪(べんぱつ)を切られたり病人を海中に投棄されるなどの暴行に堪えかねて遂に蜂起 船長等七人を打殺した  船は台湾へ向かう途中たまたま石垣島崎枝沖に座礁 三八〇人が下船した  八重山の政庁蔵元は冨崎原に仮小屋を建てて彼らを収容した  しかし米英の兵船が三回にわたり来島 砲撃を加え 武装兵らを上陸させてきびしく捜索を行った  中国人等は山中に逃亡したが銃撃 逮捕され あるいは自殺者が出るなどの惨憺たる状況となった  琉球王朝と蔵元は人道的に対応 中国人側の被害を少なくするよう極力配慮し 島民も深く同情 密かに食糧などを運び給した  しかし疫癘による病死者も続出した  死者は一人びとり石積みの墓を建立して丁重に葬られた  この間 関係国間の事件処理に対する交渉の結果、翌一八五三年九月 琉球の護送船二隻で生存者一七二人を福州に送還して終結した  中国ではこの事件が契機となって大規模な苦力貿易反対ののろしが打ち上げられた  ここ冨崎原一帯には唐人の墓と称する煉瓦状墓碑を配した墓が 戦後まで数多く点在していた   一九七〇年石垣市は異国の地に果てたこれらの不幸な人びとの霊魂を合祀慰霊するため 唐人墓建立委員会を結成 当市よりの補助 とくに中華民国政府の物心にわたる手篤いご支援 および琉球住民 在琉華僑諸賢のご芳志をもって一九七一年これを完成した
茲 に唐人墓の来歴を記すに当り 関係各面のご協力に対し 謹んで深甚なる感謝の意を表する次第である
  一九九二年三月三十一日  石垣市長   半 嶺 當 泰


(以下、中国語文:省略)
唐人墓遠景

唐人墓は冨崎にあります。


中国人労働者を殺戮するために石垣島に来島した米軍艦サラトガ号は、2年後に他の3隻の軍艦と共に、浦賀の沖合いに来航しました。

10.平和祈念碑

平和記念碑文

人間が人間を差別し 
憎悪と殺戮がくりかえされることのない
人類社会の平和を希い
この地に眠る異国の
人々の霊に敬虔な祈りを捧げる
一九七一年九月二十八日
琉球政府
行政主席 屋良朝苗
平和記念碑遠景

この碑は唐人墓のすぐ隣にあります。

11.平和祈願之碑

平和祈願之碑 碑文

人類の歴史上 いまほど世界平和が叫ばれ そしてそれが現実のものとなりつつある時代はないでしょう  それは東西の政治的な接近がもたらしたものですが 根源には交通手段 経済活動 情報網の地球的な広がりがあるのは周知のとおりであります  そして我々地球市民がこの次に乗り越えなければならない壁は異なる文化をもつ民族間の真の融和であり それには国家を越えた民間交流が重要な役割を果たすのです
今十周年を迎えた八重山青年会議所と蘇澳国際青年商会との姉妹締結は正にその第一歩であることは間違いありません
願わくはこの交流を通して両国のそして世界の恒久平和を希求し ここに平和祈願の碑を建立致します
   一九九一年八月一日
     八重山青年会議所
        理事長 宮城 隆
     蘇澳国際青年商会
        会長 陳 信光
平和祈願之碑遠景

この碑は「唐人墓」の隣(南東側)にあります。

12.米軍飛行士慰霊碑

米軍飛行士慰霊碑


邦文


英文

この碑は「平和祈願之碑」の隣にあります。
碑文
 太平洋戦争末期の昭和20年4月15日の朝、石垣島に来襲した米空母マカースレイトの雷撃機グラマンTBFアヴェンジャー編隊の1機が、日本海軍警備隊の地上砲火で撃墜された。 パラシュートで大浜沖合に落下した3名の飛行士は海軍兵士に逮捕され、捕虜となり、警備隊本部のあるバンナ岳麓で瀕死の暴行を受け、同日夜処刑された。 捕虜の虐待は「捕虜の待遇に関する条約」(通称「ジュネーブ条約」昭和4年)で禁止されていた。 ティボ中尉とタグル兵曹は軍刀で斬首、ロイド兵曹は多数の兵士達の銃剣による刺突で無残にも殺害された。 これは戦争がもたらした非常に悲しい事件であった。
 バーノン・ローレンス・ティボ中尉(機長,イリノイ州出身,28歳)
 ウォーレン・エイチ・ロイド兵曹(通信手,カンザス州出身,24歳)
 ロバート・タグル・ジュニア兵曹(砲手,テキサス州出身,20歳)
 人道上から日米が協力して、無念のを死遂げた米兵士の御霊を慰めるため、ここ石垣島に慰霊碑を建立する。
 碑が日米の平和、友好の発展に寄与し、かつ人間として持つべき平和を希求する心と、決して戦争があってはならないという固い誓いを後世に正しく伝え、世界の恒久平和の実現に寄与することを祈る。   平成13年8月15日
 米軍飛行士慰霊碑建立期成会

On the morning of April 15,1945,in the closing days of World War Ⅱ,a Grumman.TBF Avenger,assigned to the carrier USS Makassar Strait,was shot down off the coast of Ishigaki Island by the Imperal Japanese Navy. The three aviators parachuted in to the water near Ohama and swam to a coral reef,where they were captured by Japanese sailors. After being interrogated and tortured,they were executed during the night at the foot of Mount Banna,at the Imperial Navy Headquarters. The torture of prisoners of war was a violation of the Geneva Convention,the rules of war signed by the international community in 1923. Vernon L.Tebo and Robert Tuggle,Jr.were beheaded. Warren H,Loyd was beaten and stabbed with bayonets by numerous of sailors and soldiers.
This incident was a tragedy which took place during war.
 Lt,Verson L.Tebo, 28,a Navy pirot,of Illinois
 Aviation Radioman 1st Class Warren H.Loyd, 24.of Kansas
 Aviation Ordnanceman 1st Class Robert Tuggle,Jr., 20, of Texas
To console the spirits of the three fallen American servicemembers and honor their deaths,we jointly dedicate this monument in the hope that this memorial stone will contribute to the everlasting peace and friendship between Japan and the United States,and that this monument will serve as a cornerstone to convey to future generations our keep desire for eternalpeace in the world and our determination to renounce war.
August 15,2001
The Joint Committee of Japanese and American Citizens to Honor the Three Fallen American servicemembers During World War Ⅱ

13.ラムサール条約湿地 名蔵アンパル

ラムサール条約湿地


 名蔵アンパルの
マングローブ林


ラムサール条約湿地 名蔵アンパル
 国を越えて旅をする多くの水鳥が、休憩したり、安全に子育てをしたり、冬を越したりする場所として、世界各地にある自然豊かな湿地を利用しています。水鳥だけでなく、私たち人間も古くから湿地を利用し、豊かな”恵み”を享受してきました。
 そこで、多くの国々が協力して湿地の賢明な利用と保全をはかるため、1971年イランのカスピ海湖畔の町ラムサールで「特に水鳥の生息地として国際的に重要な湿地に関する条約」が定められました。
 名蔵アンパルは、平成17年11月8日にラムサール条約湿地に登録されました。将来の世代にもこの”恵み”を引き継いでいくため、私たちの生活とバランスのとれた湿地の保護と利用を進めていきます。

名蔵アンパル
 バンナ岳、前勢岳(まんせだけ)、沖縄県の最高峰於茂登岳(おもとだけ)から流れる名蔵川などの豊かな水系がそそぎこむ、東西1.5km、南北2kmほどの湿地が名蔵アンパルです。
 名蔵アンパルは、マングローブ林や海岸林、砂浜に囲まれ、湖が引くと広大な干潟が現れます。ひとまとまりになった多様な自然環境には、カニやエビ、魚貝類、鳥類など、多くの種類の生物がくらしています。
 この豊富な餌と安全な環境を求めて毎年たくさんの水鳥が名蔵アンパルに渡ってきます。ここは、やってきた水鳥たちの大切な休憩場所や越冬地になっているのです。

民謡 「あんぱるぬみだがーまゆんた」
 名蔵アンパルは、古くから島の人々に親しまれ生活に利用されてきました。そのような人と自然とのかかわりの中で生まれ、歌い継がれてきた民謡が「あんぱるぬみだがーまゆんた」です。
 この民謡には、名蔵アンパルでくらす多くのカニが登場し、それぞれの姿形や行動に合った役で宴会をしている様子がユーモラスに歌われています。
 実際のカニたちはどのような姿や動きをしているのでしようか?
 「あんぱるぬみだがーまゆんた」
 (以下省略)

14.新生井戸之碑

新生井戸之碑


碑文

新生井戸之碑
往時 長崎家の祖が漁猟のためこの杜の辺りを往還するたび樹々の間に怪しい火の明滅をみたので杜にわけ入り光の発するところを尋ねたところそこには夫婦石があつた。 思うにこの石は神のよりましの霊石にちがいないと考え爾来この霊之日参し礼拝信仰した。
ある年八重山は農作物の不作で収穫のほとんどない凶作であったが不思議なことには独り長崎家の農作物ばかりは豊かに稔ったので日頃篤く崇う杜の神のあらたかな霊験だとし初穂神酒を供えその恵みの感謝を捧げた。
この話を伝え聞いた村人はこぞって聖なる杜に額づくようになりひとしく神の霊徳に浴したので一社を建立益々信仰を深めるに至った。 ここがすなわち八重山御嶽七山の一つとして崇められる長崎御嶽である。 さるほどにこの杜への神降臨があったのち霊石の鎮まり給う西方に突然美しい霊泉の涌出があった。 人々はまさに神のみわざだと喜びこれを掘り下げ井戸を築き神に手向ける浄水を汲む井とし新生井戸(アラマリナー)と称した。
宝暦七年(一七五七)石垣村から新川村が分村したときこの新しく生れた井戸の名前を村名にして新川村と命名したと伝承されている。
 昭和五十四年(西暦一九七九)六月廿三日建立
 新川字会長 冨田孫秀謹書
新生井戸


新生井戸外観

新生井戸は長崎御嶽の西方の少し離れた場所にあります。周囲は緑の木々に囲まれています。

15.ほほえみの鐘

ほほえみの鐘の碑文

ほほえみの鐘
「世界平和の鐘」が設置された昭和63年(1985年)に、「ほほえみの鐘」も併せて設置されました。
 この鐘は「非核平和都市宣言」をした石垣市民の善意によって設置されたもので、未来を担う子ども達の幸せとすこやかな成長・世界の永遠の平和の祈りが込められています。
 私たち石垣市民は、市民ぐるみの子育てと平和を求める運動を進め、市民一人ひとりのたゆまぬ努力を誓います。
昭和63年12月10日設置
「世界平和の鐘の会」沖縄県支部
ほほえみの鐘

世界平和の鐘

ほほえみの鐘・世界平和の鐘は、ともに新栄公園内にあります。

16.真栄里節の碑

真栄里節歌碑
この歌は明治の中期 最後の真栄里首里大屋子職松茂氏宮良當意翁が作詞作曲され 真栄里村を象徴する民謡として 村民に愛唱されてきた
 村民の精神的支柱として 永く後世に歌い継がれることを願って 茲にこの歌碑を建立した
 平成五年十月
  真栄里節歌碑
   建立実行委員会
真栄里節歌碑

この碑は真栄里公民館のそばにあります。

17.真栄里アーンヌカー跡

真栄里アーンヌカー跡の碑
   真栄里アーンヌカー跡
 ここに「アーンヌカー」と呼ばれる真栄里村のウブカー(共同井戸)があった
 この井戸は古文書によると首里王府番所(オーセ)直営製糖家(シートーヤ)の水源としても利用されたという
 太平洋戦争中「軍の防空壕」として使用され戦後埋められた
 真栄里地域にはいくつかの井戸があったが水道の普及などによってそのほとんどが消失している
 公民館改築に伴って真栄里節の碑を移設するとともに井戸をイメージし水落しを設けた
 真栄里節・「アーンヌカー」を真栄里地域の文化的象徴として後世に残す
 二〇一〇年五月一五日
  真栄里公民館建設事業期成会
真栄里節の碑(中央)および
アーンヌカー跡の碑(左)

この碑は真栄里公民館のそばにあります。

18.開拓之碑(於茂登)

開拓之碑
【表面】
開拓之碑
【裏面】
開拓25周年記念事業として
昭和57年10月吉日建立する

先発者
昭和三十二年五月十九日入地
 …以下(入植者名)略・・・

この開拓之碑は、於茂登岳の麓、登山道入口前の広場(公園内)にあります。
於茂登岳は標高526m、石垣島の最高峰だけでなく沖縄県の最高峰でもあります。
碑の裏面

19.なかどぅ道ぬとぅばらーま歌碑

なかどぅ道ぬ
とぅばらーま歌碑

(歌碑)
なかどう道から
ななけーら
かようけ
仲筋かぬしゃま
そうだんぬ
ならぬ
(意味)
なかどう道から七回通うけれども、仲筋家の愛しいあの娘は話を聞いてくれない。(縁組が叶わない)

※ 八重山の代表的な郷土芸能の一つでもある「とぅばらーま」の発祥地と言われる、「なかどぅ道ぬとぅばらーま歌碑広場」に、この碑はあります。
「仲道道(ナカドゥミチィ)」とは、昔、登野城村から真栄里村に通じる道の呼名です。現在、この歌碑の前には大きなアコウ(オオバアコウ:通称「三番アコウ」)の木が立っています。
三番アコウの木

右手奥に「なかどぅ道ぬとぅばらーま歌碑」が見えます。

20.八重山島蔵元跡

八重山島蔵元跡の説明看板

八重山島蔵元跡
Yaeyamajima kuramoto Historic Site
蔵元とは、首里王府が地方統治のために創設した政庁で、八重山のほかに宮古島と久米島に置かれていた。八重山島蔵元は、1524年、当時の八重山役人の最高職(頭職(カシラショク))を王府から任命された西塘(ニシトウ)が、出身地の竹富島に開庁したのが始まりとされる。しかし、交通の不便さや土地の狭さなどの理由から、のちに石垣島の大川村に移転し、1633年に、八重山キリシタン事件で処刑された本宮良(ムトゥメーラ)頭石垣永将(エイショウ)の屋敷跡である現在地に移転した。
 その後、1771年の「明和の大津波」で被害に遭い、大川村の高台の文嶺(ブンニ)に移転し、1775年には元の大川村のフンナに移り、1815年には、港と一体となった政治・経済・交通の中心地であった現在地に再び戻った。1879(明治12)年の廃藩置県後もなお存続し機能していたが、1897(明治30)年に廃止となり、八重山島蔵元としての370年余りの歴史を閉じた。
 その後、沖縄県の出先機関である旧八重山支庁など、近年まで行政庁がこの地に置かれていた。現在も、地中には石積み、礎石、柱穴など八重山島蔵元の遺構が残されている。


Kuramoto was a government office established by the Ryukyu Kingdom in order to govern Yaeyama and other areas. Government offices were also established on Miyako-jima and Kume-jima islands. The Yaeyama Islands Kuramoto is said to have its origins in the opening of a government office in 1524 by Nishito, who had been appointed by the kingdom to be the highest-ranking official of Yaeyama. This office was opened on Taketomi, the island of his birth. But because this site was inconvenient for travelling and the grounds were too small, the office was later relocated to Okawa-mura village on Ishigaki Island, and in 1633, was moved to the site of the former residence of Ishigaki Eisho, the head of Mutumera who was executed during the Yaeyama Christian purge. Following this, the structure was damaged by the Great Meiwa Tsunami in 1771, and was relocated to high grounds of Bunni in Okawa village. The office was returned to its former site in Okawa village in 1775,and in 1815,it was again relocated to return to this present site. Integrated with the harbor, this area was the political, economic, and transportation center of Ishigaki. Even after the new administrative policy for establishment of prefectures and abolishment of the domain system was adopted in 1879, this structure remained and continued to function. However, in line with the challenging times, the building was abandoned in 1897, putting an end to its over 370-year history as the Yaeyama islands Kuramoto. Following this, government administration offices such as the former Yeyama branch office of the government of Okinawa Prefecture were located here until just recently. Even now, masonry, corner stones, pillar holes, and other relics of the Yaeyama Islands Kuramoto still remain on the grounds.
八重山島蔵元跡の外観

八重山島蔵元跡は八重山博物館の西側にあります。

21.道路元標

道路元標の碑

この道路元標は、八重山島蔵元跡の碑のすぐそばにあります。
道路元標
Zero Milestone
道路元標とは、道路の起終点等の基準位置を定めた標石である。1920(大正9)年に施行された旧道路法で、各市町村に一つ置くこととされていたが、法改正により、その役割を終え徐々に姿を消していった。
 国内に現存する道路元標は、そのほとんどが戦前に設置され、法に基づき高さ60センチほどの四角柱状の石材に文字が彫られているのに対し、この道路元標は、コンクリート化粧仕上げのオベリスク型の標柱に銅製のプレートを組み込んだ形となっている。これは、戦後の米軍統治下に置かれていた八重山諸島政府の創立1周年を記念して設置されたものを復元したもので、その様式にはアメリカなどの影響が見られ、大変珍しく貴重なものとされている。
 また、設置当時の銅製のプレートには「1951年11月7日」の日付と「八重山群島政府」の名が刻まれており、戦後の行政機構の変遷を物語るものとなっている。
 なお、設置当時のプレートは、石垣市立八重山博物館に保管されている。

A zero milestone is a zero mile marker that indicates the position of the start or end of roads. The old road law that came into effect in 1920 made it mandatory for each municipality to have one milestone. But the role of milestones came to an end with the revision of this law, and one by one they started to disappear. Almost all of the zero milestones that still exist throughout Japan today were erected before World War Ⅱ, and based on the old law, take the form of a rectangular pillar made of stone standing about 60 centimeters high with letters engraved on the surface. In contrast, this zero milestone has a bronze plate embedded on an obelisk-shaped foundation made of decorative concrete. This zero milestone is a duplication of the milestone erected to commemorate the first anniversary of the Yaeyama Islands Government, which was established under the U.S. occupation after the war. Because American influences can be seen in the style of the milestone, it is said to be very exceptional and of high value. The date "November 7, 1951" and the words "Yaeyama Islands Government," which were engraved on the bronze plate when the milestone was erected, are testament to the changes in the administrative structure following the end of the war. The original bronze plate is now kept at the Ishigaki municipal Yaeyama Museum.
道路元標プレート(レプリカ)


オベリスク型の標柱

写真中央部に、道路元標を埋め込んだオベリスク型の標柱が見えます。
八重山諸島政府時代の
道路元標(オリジナル)

八重山諸島政府時代の道路元標
 道路元標は道路の起点を示す工作物で、旧道路法では市町村にひとつという位置づけで各所に設けられた。道路法が改正されると、道路元標はその役割を終え、徐々に姿を消していった。
 この道路元標は、旧八重山支庁内にあったものである。1951年、八重山群島政府発足から1周年の記念日にモニュメントが建てられ、「道路元標」と記された銅板が埋め込まれた。沖縄本島では、沖縄市(美里)や読谷村(喜名)にも残されているが、石垣のものとは異なり、板状に加工した石に文字が刻まれている。
このプレートは、石垣市立八重山博物館の展示室(入ってすぐ左手)に保管されています。

22.人頭税廃止百年記念の碑

人頭税廃止百年記念の碑
八重山人頭税廃止百年記念の碑
 近世から明治の後期に至るまで両先島(宮古・八重山)には、各個人に頭割りに課した人頭税があり、私たちの先人はその不合理で苛酷な税制のもとで苦境にあえいでいた。
 宮古島における先覚者らによる人頭税廃止請願運動の盛り上がりと、沖縄県土地整理事業の完了により明治二六年(1903)一月一日から新税法に移行し、人頭税は廃止となった。それを記念して八重山では群民あげての祝賀会が催された。
 人頭税廃止百年に当たり、先人の苦労を後世に伝えると共に、その歴史的意義に鑑み、ここに記念碑を建立する。
2003年(平成15)一月一日
八重山人頭税廃止百年記念碑事業期成会
石垣市立八重山博物館

人頭税廃止百年記念の碑は
博物館正面左側にあります。

23.大濱信泉像

大濱信泉像

この訓は、銅像の下に記されています。
大濱信泉像
大濱信泉 訓

人の価値は
生まれた場所によって
決まるものではない
いかに努力し
自分を磨くかによって
決まるものである
末次一郎書

大濱信泉 記念館

大濱信泉記念館は登野城の美崎御嶽の南側、国道307号線沿いにあります。
大濱信泉先生生誕之地の碑

大濱信泉先生生誕之地

この碑は沖縄復帰促進に功績のあった 元早稲田大学総長大濱信泉先生を永遠に称える為寄贈したものである
沖縄協会々長  茅 誠司

大濱信泉先生の生家

大濱信泉先生の生家は登野城の美崎御嶽の近くにあります。

24.鷲ぬ鳥節 発祥の地

「鷲ぬ鳥節
発祥の地」の碑


鷲ぬ鳥節 発祥の地

歌詞
一.綾羽ば 生らしょぅり ぶいる羽ば 産だしょぅり
一.正月ぬ すいとぅむでぃ 元旦ぬ 朝ぱな
一.東かい 飛つぃけ 太陽ばかめ 舞つぃけ


(意味)
一.綾なす羽の鷲の子を 産みまして
  美しく艶やかな羽の鷲の子を 孵しまして
一.正月の 早朝に 元日の 朝まだきに
一.東のほうへ 飛んで行き 太陽を戴いて 舞って行き

※ 正月の太陽に向かって鷲が羽ばたく様子を悠然と歌った「鷲ぬ鳥節」は、お目出度い歌として宴会の座開きや祝いの門出などの場面でよく歌われます。
「鷲ぬ鳥節」の歌詞

この碑はヤーグレナモール内にあります。ここが八重山民謡「鷲ぬ鳥節(ばすぃぬとぅるぃぶし)」の発祥地とされています。

25.尖閣列島開拓記念碑

古賀辰四郎尖閣列島
開拓記念碑 遠景

碑の上部は魚釣島を模ったものになっています。そこに「古賀辰四郎尖閣列島開拓記念碑」と記されています。

同 碑文と地図

古賀辰四郎尖閣列島開拓記念碑

碑文
 古賀辰四郎は福岡県の人 廃藩置県の明治十二年来県 同年那覇で古賀商店を 十五年石垣島大川村海岸近くに八重山支店を開設した  明治二十九年日本政府の許可を得て尖閣列島魚釣島 南小島 北小島 久場島で海陸物産の開拓に心血を注ぎ 生産物資は外国にも輸出 国 県の経済 社会に大きく貢献 明治四十二年藍綬褒章を授与された 子息善次は昭和七年右四島を国より払下げを受け その没後は妻花子がこれを管理した 
  戦後古賀家の遺産は遺言により埼玉県の実業家栗原國起がこれを継承 財団法人古賀協会を創立 沖縄県のスポーツ振興面に貢献しつつある 絶海の無人島に私財を投じ 父子二代の生涯をかけた開拓事業であった この度先覚者の偉業を記念するため支店旧地に近いこの地にこの碑を建立した    -平成七年十二月-
  那覇市西一丁目二〇番地の一
    財団法人古賀協会 会長 栗原佐代子
    碑文並に揮毫        牧野 清
碑文

地図

尖閣列島開拓記念碑は、登野城漁港の先の八島緑地公園の中に建っています。

26.オヤケアカハチ之像

オヤケアカハチ之像の碑


オヤケアカハチの像

オヤケアカハチ之像
 西暦一五〇〇年(明応九年)、当時の琉球王府に年貢を拒否、反旗を翻動した驚天動地のアカハチの乱の主人公・オヤケアカハチの銅像。その人物像は体つきが人並みはずれた大男、抜群の力持ち、髪は赤茶けて日本人ばなれのした精悍な顔つきの若者-と伝えられている。
 正義感が強く、島民解放のため先頭に立って権力にたち向い、大浜村の人々から太陽と崇められ信望を一身に集めていた。
 爾来、今日まで英傑・オヤケアカハチの道徳は大浜村の人々に「アカハチ精神」として受け継がれている。
 この銅像はイメージ像をもとに現代の手法を駆使して製作したものである。
 オヤケアカハチ五〇〇年実行委員会
 西暦二〇〇〇年十月吉日建立


オヤケアカハチの像は大浜小学校の北側にあります。

オヤケアカハチの像裏面

ここには次のように記されています。
台石寄贈 友寄 英朝
像名揮毫 前津 榮一
施工業者 やえやま石材
       前津 榮功

27.オヤケアカハチ顕彰碑

オヤケアカハチ顕彰碑


同裏面

碑文
 オヤケアカハチは一名ホンガワラアカハチとも稱した豪勇衆にすぐれ群雄割拠のその当時大浜村を根拠として酋長に仰がれていた 文明十八年(一四八六)中山尚真王は使者を八重山に特派してイリキヤアモリの祭祀を淫祠邪教として厳禁したところ島民は信仰への不当なる弾圧だとしていたく憤慨した ここにおいてアカハチは島民の先頭に立って反旗をひるがえし朝貢を両三年壟断して中山の反省を求めたが尚真王は大里王子を大将とし副将並びに神女君南風らと共に精鋭三千人を兵船四十六隻で反乱鎮圧に派遣した アカハチは大いに防戦奮闘したが衆募敵せず恨みをのんで底原の露と消えた 時は明応九年(一五〇〇)今から四五四年前のことである アカハチは封建制度に反抗して自由民権を主張し島民のためにやむにやまれぬ正義観をもって戦ったのである 戦いは利あらず敗れたけれどもその精神と行動は永く後世に光芒を放つことであろう ここに碑をもってその偉徳を讃えるゆえんである
 一九五三年四月十六日
  オヤケアカハチ顕彰碑建立
     委員長 廣田禎夫
     撰  文 喜舎場永玽

(裏面)
オヤケアカハチ五〇〇年祭実行委員会
二〇〇〇年(平成十三年)八月吉日転記
揮毫者 委員長 前津 栄一
彫刻者 司やえやま石材
オヤケアカハチ顕彰碑遠景

オヤケアカハチ顕彰碑の右隣には、彼の妻の碑「古乙婆之碑」が建てられています。
 いずれも、有名な「津波大石」のある大浜公園内にあります。

 

28.史跡 フルスト原遺跡

史跡 フルスト原遺跡碑文


史跡 フルスト原遺跡
  昭和52年 国指定
 この遺跡は、崖上に連なる石積み障壁、四囲に石積みを繞らした郭状の区画、北東部に築かれた城門跡のほか墓および御嶽を内容とします。
 グスク時代の石垣島は、沖縄本島の勢力に対して独立性を保ちながら内部は複数の有力者が分割的に地域支配を行なっていたものと思われ、その有力者たちの拠点となったところが遺跡として残っていますが、15世紀の遠弥計赤蜂(おやけあかはち)の居城といわれるフルスト原遺跡はその内でも規模・構造ともに秀れています。
 フルスト原遺跡は、沖縄本島等にある城(ぐすく)跡と多くの点で共通する半面、郭状遺構の配置等に独自の性格を見出し得るものであり、沖縄県の歴史を理解する上できわめて貴重な遺跡です。
 沖縄県教育委員会
 昭和53年3月31日

フルスト原遺跡は石垣空港の北側に位置し、南北900m、東西200mの敷地に石塁が築かれています。言い伝えでは、オヤケ アカハチの居館跡だと言われています。
史跡 フルスト原遺跡

石柱には「史跡 フルスト原遺跡 昭和53年3月3日 国指定」と記されています。

29.明和大津波遭難者慰霊之塔

明和大津波
遭難者慰霊之塔の碑文


碑文
 八重山の古記録大波之時各村之形行書によれば 乾隆三十六年(日本年号明和八年)三月十日(一七七一年四月二四日)午前八時ごろ大地震があり それが止むと石垣島の東方に雷鳴のような音がとどろき 間もなく外の瀬まで潮が干き 東北東南海上に大波が黒雲のようにひるがえり立ち たちまち島島村村を襲った 波は三度もくりかえした 史上有名な八重山の明和大津波である
 津波は石垣島の東岸と南岸で激甚をきわめ 全半潰あわせて一三村 ほかに黒島 新城二村が半壊し 遭難死亡者は九三一三人に達した
 こうして群島の政治 経済 文化の中心地石垣島は壊滅的打撃をうけ 加えてその後の凶作 飢饉 伝染病などによる餓死者 病死者も続出して 人口は年年減少の一途をたどり 人頭税制下の八重山社会の歩みを一層困難なものとし その影響はまことに計り難いものがあった この天災から二一二年 狂瀾怒涛のなかで落命した人人のことを思うとき いまなお断腸の念を禁ずることができない このたび有志相謀り 群島全遭難死亡者のみたまを合祀してその冥福を祈り あわせてこの未曾有の災害の歴史が永く後世に語りつがれていくことを念願し 島内外各面の浄財と 石垣市 竹富町 与那国町並びに諸機関 団体の御協力を仰いで ここにこの塔を建立した

 一九八三年(昭和五八)四月二四日
 明和大津波遭難者慰霊碑建立期成会

明和大津波
遭難者慰霊之塔


同拡大写真

※ 「古記録大波之時各村之形行書」は、「おおなみのときのかくむらのなりゆきしょ」と読みます。
明和大津波
災害関係諸記録抜粋の碑文


明和大津波災害関係諸記録抜粋
地震の規模と位置(東京天文台編理科年表による) M(マグニチュード)7.4 震源地東経一二四.三度 北緯二四度 「八重山地震津波」と記録 (石垣島白保崎南南東四〇キロメートルと測定される)
津波の状況(大波之時各村之形行書による
石垣島で「潮揚高貮拾八丈(八四.八メートル) 或貮拾丈(六〇.六メートル) 或貮拾五(七五.七~七八.七メートル)貮 参文(六~九メートル) 沖ノ石陸へ寄揚 陸ノ石並大木根乍被引流」とある
災害の状況(大波之時各村之形行書 御手形写御間合控等による
した村 石垣島の真栄里 大浜 宮良 白保 仲与銘 伊原間 安良 屋良部の計八村
半壊した村 石垣島の大川 石垣
 新川 登野城 平得 離島の黒島 新城の計七村
遭難死亡者 総計九三一三人(群島人口の三二.二二%に当る) 内 石垣島八八一五人(九四.七%) 在番 頭職等の公職者八八人及び蔵元の公用で離島からきて遭難死亡した三七六人を含む) 黒島二九三人(三.一%) 新城島二〇五人(二.二%)
住家の全潰 総計二一七六戸 浸水一〇〇三戸 田畑の流出 総計一六四二町四反五畝一二歩
作物被害 田畑総計一七九五町二反六畝一〇歩
その他の流潰流出 蔵元庁舎 村番所一三棟
会所四棟 御嶽一四棟 橋梁六座 桃林寺及び同寺の仁王像二体 権現宮 貢納米等


右: 明和大津波遭難者慰霊之塔の碑文
左: 明和大津波災害関係諸記録抜粋
明和大津波遭難者慰霊之塔は、宮良地区のタフナー原に建てられています。

30.赤馬の由来

赤馬の由来の碑


赤馬の像


赤馬の由来
文珪氏四世の大城師番(一六七一~一七五〇)は仲筋村番所に在勤中 名蔵湾で不思議な子馬に出合った 師番は子馬に愛情を注ぎ 手塩にかけて育てたところ 群鶏の一鶴という言葉のように大きく気品にみちた名馬に成長した 赤毛の駿馬は赤馬の愛称で呼ばれ広く内外に知られるようになった 折りしも琉球王府は国王の乗馬を探し求めていて 早速 馬見利役が遣わされ まさしく意に叶う馬として献上させられることになった 師番は御料馬に出世した赤馬とともに自分も育ての親として名誉この上もないことだと喜び 晴れの門出を祝って 村人たちと送別の宴を催した 席上愛馬へのはなむけとして歌ったのが次の句といわれている
 赤馬ぬ いらすざ 足四ちゃぬどうきにゃく
 生りる甲斐 赤馬 産でぃる甲斐足四ちゃ
 沖縄主に 望まれ 主ぬ前に見のふされ
この地は村人の赤馬を見送った所で馬見岩(ンマミイシ)の名が残っている

赤馬公園 遠景

「赤馬公園」は、市街地から国道390号線を北上し宮良橋を渡り、宮良集落手前の坂道の途中の海側にあります。
詩碑 仰高徳の碑


同碑文(上段が赤馬節)


赤馬節
    (其の一)
赤馬ぬ いらすざ
 足四ちゃぬどうきにゃく
生りるかい 赤馬
 産でぃるかい 足四ちゃ
沖縄主に 望まれ
 主ぬ前に見のふされ
句の意味]
赤馬の、ああ 羨ましいことよ
 足四ちゃ(赤馬)の冥加なことよ
生まれ甲斐ある 赤馬よ
  育てる甲斐のある 赤馬よ
琉球国王に望まれ
  琉球藩主のお召馬になった
    (其の二)
いらさにしゃ 今日ぬ日
   (ヒア-ルガヒ)
どきさにしゃくかに日
ばんすでる今日だら
   (ヒア-ルガヒ)
羽生いるだきだら

ああ よろこばしい 今日の日よ

とてもうれしい 黄金の日よ
私は生まれかわった位  嬉しい今日の日よ
羽が生えて飛び立つ位 うれしいよ

※ 碑の上段部を掲載し、下段部は省略しています。
 大城師番は公職を退いた後も宮良村に住み、「赤馬大王」または「高徳の人」として仰がれ、寛延三年(1750年)1月27日に80歳の高齢で亡くなったそうです。
 彼が作った「赤馬ぬいらすざ」に始まる一連の詩句と「いらさにしゃ今日ぬ日」に始まる一連の詩句は、その後これを合わせて「赤馬節」と呼ばれ、広く人々に愛唱されるようになりました。
 赤馬節は八重山を代表する民謡の一つとして、現在でも祝い事などの目出度い時に歌われています。赤馬節は別名「いらさにしゃー」とも言われていますが、「いらさにしゃー」とは方言で「あー、うれしい」という意味です。心から嬉しさが込み上げてきて、飛び上がりたいくらいの気持ちを表わす島言葉です。

31.宮良川のヒルギ林 天然記念物指定碑

天然記念物指定碑


宮良川のヒルギ林の
説明看板

(説明看板より)
天然記念物 宮良川のヒルギ林
昭和47年5月15日指定
「宮良川のヒルギ林」は宮良川の河口から上流の両岸1,500mにわたって発達し、その面積225haで、メヒルギ、オヒルギそしてヤエヤマヒルギなどの種類を中心としたヒルギの大群落であります。
 また、指定地内には前記の種以外にハマナツメ、カカツガユ、ヒメガマ、オキナワシャリンバイ、サルカケミカン、アダンなどもみられます。
 ヒルギ林は熱帯から台湾、沖縄を経て鹿児島県まで分布し、海岸や河口などの泥地に成林する特異的な群落です。
 本地域は石垣島の代表的なヒルギ林として指定してあります。
 なお、この地域において許可を得ることなく現状を変更し、または、保存に影響を及ぼす行為をすることは法律で禁じられています。
                              文部省
                              沖縄県
設置場所の光景

これらは宮良橋の右岸・下流側の欄干下にあります。

32.真謝井戸 (ましゃんがー)

真謝井戸の碑


真謝井戸の碑 遠景

真謝井戸
真謝井戸の碑
寛延3年(1750)の頃、真謝村は白保から分封した。真謝井戸は当時村民の飲料水川として掘られたが、明和8年(1771)大津波によって埋められてしまった。白保真謝両村も津波のために壊滅したので、八重山の行政庁蔵元では波照間島から強制移住せしめて白保村を再建し、真謝村は廃村となった。
 真謝井戸は琉球王命により、視察のため派遣された馬術の名人馬真謝という人が、村人と共に再掘して永く村民の生活に役立てた由緒ある井戸である。
 1966年4月23日 老人会建立   2006年6月 吉日改築
 撰文 喜舎場永珣 ・牧野清   寄贈 ヤマト工業(資)


※ 真謝井戸(マジャンガー)は、白保村に現存する唯一の古井戸で、民謡「シンダスリ節」にも詠まれ、また村人の信仰の対象にもなっています。1950年代に、白保の各戸に水道が導入されるまでは飲料水の源として重要な役割を果たしていました。
真謝井戸


真謝井戸 遠景

真謝井戸はウリカー(降り井戸)です。

33.エジナバラ公訪問記念碑

エジナバラ公訪問記念碑

碑の後ろの木がエジンバラ公が植樹をされたものです。
WWF総裁
エジンバラ公フィリップ殿下
白保訪問記念
1992年3月3日


石垣新空港建設の建設地として、一時、白保海岸を埋立する計画がありました。この案が発表された後、海外の研究者等から白保のサンゴ礁の希少性が世界に紹介され、白保のサンゴ礁の保護運動が本格化しました。
こうした中、平成4 年(1992)3月3日にWWF (世界自然保護基金)の総裁として英国エジンバラ公フィリップ殿下が白保海域のサンゴなどを視察され、白保船着場に植樹をされました。
その後平成12 年(2000)4月に、白保集落内にWWF サンゴ礁保護研究センター(通称:しらほサンゴ村)が設置され、その開設10周年記念としてこの地に記念碑が建てられました。


この碑の後ろは、ハーリー船の置き場となっています。

34.舟溝開砕記念の塔

舟溝開砕記念の塔

舟溝開砕記念の塔
    →
東北東800m地点

舟溝(ワタンジを越えて船が航行しやすいように掘られた溝)が切り開かれその場所がここの東北東800mの位置にあることが記されています。
因みにワタンジとは、浜から干潮時に海面上に現れるピー(リーフエッジ)まで続く浅瀬のことです。

白保船着場

この塔は白保船着場の前にあります。

35.柳田國男の歌碑

柳田國男の歌碑(表)

(裏)

(碑文:裏)

(表側)
あらはまの

まさごに まじる
たから貝
むなしき
名さへ
なほ うもれつつ

石垣島にて
東京朝日新聞社記者 柳田國男

(裏側)
柳田國男は一八七五年(明治八)七月三十一日 兵庫県に生まれた 日本民俗学の創始者で 近代日本の代表的な思想家としても 各分野に大きな影響を与え続けている 柳田國男は大正十年 東京朝日新聞記者として来沖 この旅行は沖縄研究の扉を内外に開き 日本民俗学の形成に重要な意義をもった 「海南小記」はその記録である 石垣島に来島したのは同年一月二十四日で七日間の滞在だったが その後晩年に至るまで八重山の文化を紹介し 民俗・芸能の宝庫として全国に知らしめた また八重山出身の研究者も育てた 碑文の歌は石垣島を去った直後の二月一日地元の新聞に掲載された 大学生の時に愛知県伊良湖崎に流れ着いた椰子の実を見た体験と 沖縄で見た宝貝は その後大きなモチーフとなって 晩年の壮大な著作「海上の道」となった 椰子の実と宝貝は 日本民族の生活に思いをはせた柳田國男の民俗学を知るための重要なキーワードである
一九六二年(昭和三七)八月八日 八十八歳で死去した
 二〇〇一年(平成十三)十二月十六日
  柳田國男歌碑建立期成会
     揮毫 豊平峰雲
     刻字 崎山寛樹

歌碑前の白保海岸

この碑は、白保集落の北端の海岸線沿い(浜より少し上った所)にあります。海岸林内にあるためちょっと分かり難いですよ。

36.国指定名蔵アンパル鳥獣保護区

国指定 名蔵アンパル
鳥獣保護区


名蔵アンパル

国指定名蔵アンパル鳥獣保護区
平成15年度指定
 名蔵川河口域のマングローブ林、干潟、海浜、原野、海岸林に名蔵湾の一部を加えた一帯は、国指定名蔵アンパル鳥獣保護区(面積:1145ha)に指定されています。
 亜熱帯のさまざまな自然環境がまとまって分布しているため、多くの種類の鳥類を観察できることがこの鳥類保護区の特徴です。この地域をシギ・チドリ・サギ類の水鳥は渡りの中継地又は越冬地として、また、猛禽類、森林性鳥類等は生息の場として利用しているため、水鳥類ではクロツラヘラサギ、セイタカシギ、アカアシシギ等、猛禽類ではカンムリワシ、リュウキュウツミ、チュウヒ等、森林性鳥類ではキンバト、オオクイナ等の希少な鳥類が観察できます。
 鳥類保護区のマングローブ林、干潟、海岸林等の一部は鳥類の生息環境として特に重要であるため、特別保護地区に指定されています。鳥類保護区内では、鳥類の捕獲が禁止されており、さらに、特別保護地区内においては、①建築物や工作物を新・改・増築する、②水面を埋め立てる又は干拓する、③木竹を伐栽する場合には環境大臣の許可が必要となります。
 名蔵アンパル鳥獣保護区の自然が将来にわたって野鳥をはじめとした野生動物たちの住みかであり続けるようこの環境を守っていくことが大切です。

 環境省那覇自然環境事務所
自然のゆりかご
名蔵アンパル


この看板には、名蔵アンパルで見ることのできるマングローブ、カニ類、ハゼ類、貝類、鳥類が描かれています。
これらの看板は名蔵大橋横の駐車場横に設置されています。

37.仲間満慶山終焉之地

「仲間満慶山終焉之地」の碑

仲間満慶山終焉之地

伝承によれば、1500年の「オヤケアカハチの乱」以前に大浜村を拠点に活躍していたオヤケアカハチは、登野城の仲須目原(ナカシィメーバル)で、川平村の仲間満慶山(ナカマミツケーマ)と会見し、首里王府(国王:尚真王)に対抗し共に戦おうと申し出をしました。しかし、仲間満慶山はこの協力を断ります。その後、仲間満慶山は川平村に帰る途中、オヤケアカハチの手下の仕掛けた落とし穴に落ち、名蔵湾沿いの岬で無念の死を遂げました。
この「仲間満慶山終焉之地」の碑は、昭和36年(1961年)10月に、彼の子孫にあたる憲章(ケンショウ)姓一門の関係者によって建立されました。
この碑は、石垣と川平の間の県道沿いのケーラ崎(石垣焼窯元の正面・海側)にあります。

38.川平湾の人魚物語

「川平湾の人魚物語」の
説明看板


川平湾の人魚物語
 その昔、村の若者が漁をしていると人魚がとれました。そのころ人魚は不老長寿の薬とされていたので、捕まえるのが常でしたが、大変美しい娘(人魚)であったので若者は村人の止めるのも聞かずに、人魚を海に返してしまいました。 若者は村から追われ、行き場を失ったので娘(人魚)が哀れに思い、自分の国へと連れて帰りました。 人魚の国の長老は「娘を助けてくれたので、かの地で二人で暮らせ」と言って見事に光輝く黒蝶真珠を取り出し若者と娘(人魚)に与えました。 二人はこの地へ移り住み子沢山に恵まれ幸せな一生を送りました。それゆえに真珠を身につけ人魚にふれると願い事がかなえられると言い伝えられています。

人魚の像

この説明看板は川平地区の、高嶺酒造所のある交差点を海側に下りた所にあります。

39.黒蝶真珠養殖発祥の地

黒蝶真珠養殖発祥の地
の説明看板


世界初黒蝶真珠養殖発祥の地・川平湾
 天然の黒蝶真珠は40万個に1個の割合でしか発見されません。
その希少性ゆえに”幻の真珠”と言われております。
1953年(昭和28年)日本最南端、ここ川平湾で「世界初黒蝶真珠」が誕生しました。
その9年後、1962年にタヒチは黒蝶真珠養殖に成功し、1975年前後から本格的な養殖が行われました。
ここ川平湾で浜揚げされた「黒蝶真珠」が、1968年・世界的に有名な「ミキモト」のニューヨーク支店で販売され話題を呼びました。 当時の黒蝶真珠といえば着色したものしかなく、それが世界の真珠市場で定着していました。
ところが突然、当社の養殖黒蝶真珠が登場したので、ニセモノか本物かで世界の宝石市場で論議となり、科学的に立証され、ようやく世界で認められました。同年代に生産された黒蝶真珠が現在アメリカのスミソニアン国立博物館の沖縄民族コレクションに展示されています。 この「世界初黒蝶真珠」の生みの親、渡嘉敷 進(当社会長)は、半世紀を黒蝶真珠養殖に精魂を傾け、今尚、より美しい黒蝶真珠を求め研究開発に取り組んでいます。
この川平湾で産まれた黒蝶真珠は、美しい沖縄のサンゴの海が生んだ世紀の傑作といえるでしょう。
 現在この黒蝶真珠は国際的に高い評価を得ています。
この説明看板は、川平地区にある琉球真珠本店の横(人魚の像の隣)にあります。

40.ばしゆんた(鷲ゆんた)の碑

ばしゆんたの碑
ばしゆんた
うふ山ぬうちなんが なあ山ぬ すばなんが
うふあこうぬむようり なりあこうぬさしような

英○満慶山は紀元一四六五年川平に生れた 父は元の王 母は仲間村つかさ仲間サカイ ばしゆんたは母サカイが詠んだと伝えられている

※ ○は旧文字で表記不可
この碑は、川平公園の中にあります。

「ばし」とは「鷲」の意味で、八重山に生息するカンムリワシを示しています。
「ゆんた」とは八重山古民謡にある農民の労働歌で、男女で交互にうたわれた唱でした。

「ばしゆんた」はこの川平発祥説のほかに、大川(石垣市内)発祥説もあります。

41.川平観音堂

川平観音堂の碑文

川平観音堂
 川平村は八重山でも歴史は古く、川平湾は昔、首里王府への貢納物を集積する三大港の一つで、石垣島から沖縄本島等へむかう船の風待つ港でもあった。
 川平湾を見下ろす小高い丘の川平公園に立つ川平観音堂は、十七世紀中葉に創建されたと伝えられている。
 伝承によると、「川平湾にマーラン船が順風を待って停泊していた。その船から小僧が順風になるまでと川平村へ上陸した。しばらくして戻ってみるとマーラン船はすでに出帆し、遥か沖を帆走していた。小僧は驚き嘆きながら、船が川平湾へ戻るように神仏に一心に祈った。小僧の熱願は天に通じ、北風が吹き船は戻って来て乗船することができ、無事要件をはたした。数年後、小僧は和尚となって帰島し、自分の祈願した地に観音堂を建て祀った」と伝えられている。
 爾来、この川平観音堂には全国津々浦々から、多くの人々が訪れ安全祈願、大願成就祈願、無病息災や縁結びの祈願のために参拝している。
 なお、風光明媚なこの川平湾は日本百景の一つに選ばれ、石垣市文化財の名勝にも指定されている。
 平成四年十月一日
        川平公民館
 奉納  高嶺英正
川平観音堂遠景

川平観音堂は、川平公園の駐車場東側、川平湾への降り口の横にあります。

42.史跡 川平貝塚

川平貝塚の碑文

史跡 川平貝塚
 昭和47年5月15日 国指定
この貝塚は、比高約30メートルの仲間森と獅子森を含む一帯の原野や畑地に形成されています。1904年(明治37)に考古学者鳥居龍蔵博士によって中央の学会に紹介され、先史時代の南島文化研究の草創の地となったところです。
貝塚から出土する遺物としては、いわゆる外耳土器を含む土器類、中国製品を含む陶磁器類、石器、貝器等があります。先島諸島の遺跡は、大別すると陶磁器類を伴出する遺跡と、それを伴わぬより古い時期のものと考えられる遺跡および石器のみを出土し土器を伴わぬ遺跡に分類できます。陶磁器類を伴出する遺跡の年代は、宋銭の出土をみるものがあることから、ほぼ推定可能です。
川平貝塚は、先島諸島の遺跡の一類型を代表するものであり、学史的にも重要な位置をしめます。
  沖縄県教育委員会
    昭和53年3月31日
川平貝塚の碑

川平貝塚は川平集落から底地(スクジ)ビーチに行く坂道の途中・右手にあります。

43.伊波南哲詩碑

ふるさと 詩碑


(裏面)


ふるさと
 伊波南哲
ふるさとは
わがこころのともしび
のぞみもえ
いのちのいずみわきいで
こころほのぼのと
とめるふるさと

(裏面)
伊波南哲さんは明治35年この島で生れ 昭和のはじめから亡くなられる昭和51年まで 一貫して沖縄をうたい続けた愛郷の詩人でした 代表作の長編叙情詩「オヤケアカハチ」をはじめ「沖縄の民謡」「伊波南哲詩集」など生涯に27冊もの著作を残しました その作品は南国の太陽のように明るくおおらかで台風のような情熱に貫かれた郷土文学です それに沖縄の民族的エネルギーを発揚したものとして 私達沖縄の誇りであります こうした半世紀に及ぶ文学活動を記念するため南哲さん没後の一周忌を機に この詩碑を建立するものであります
昭和52年12月28日
伊波南哲 詩碑建立期成会
伊波南哲詩碑

この碑は底地ビーチの駐車場脇にあります。伊波南哲氏は石垣島出身の詩人で童話作家、また多くの民話も残されています。

44.底地海水浴場の説明看板

底地海水浴場の説明看板




西表石垣国立公園(Iriomote-Ishigaki National Park)
西表石垣国立公園は、日本列島南西端に位置する国立公園です。西表島、石垣島、その間にはさまれたサンゴ礁の海(石西礁湖)と島々からなります。面積80%が亜熱帯林に覆われた西表島は、イリオモテヤマネコなど希少な野生動物も多く生息しています。優れた海中景観を持つ石西礁湖は、日本最大規模のサンゴ礁でその海域にサンゴ礁の隆起でできた竹富島、黒島などに沖縄独特の集落景観が観られます。八重山諸島の玄関口となる石垣島は、島の中心に亜熱帯の森林がまとまって見られる於茂登岳があるほか、沿岸には北半球最大規模のアオサンゴ大群落がある白保など優れた海中景観が見られます。
Located at the southwestern end of the Japanese archipelago, Iriomote-Ishigaki National Park consists of Iriomote and Ishigaki islands, Sekisei Lagoon (the coral sea between the two main islands), and several smaller islands. Iriomote island, 80% of which is covered by subtropical forests, provides ideal habitats for various rare wild animals including the endangered Iriomote wildcat. Sekisei Lagoon, which contains one of the largest coral reefs in the Japan, boasts spectacular underwater views. Typical Okinawan villages can be found on some of the raised coral islets, including Taketomi and Kuro. Ishigaki Island serves as the gateway to the Yaeyama Islands. It features clusters of subtropical forests, which cover its highest peak, Omotodake, at the center of the island. The shores of Ishigaki, including Shiraho Beach, which has one of the largest blue coral colonies in the northern hemisphere, offer breathtaking views to divers. 

底地園地 Sukuji area
底地海水浴場 Sukuji Beach
白いサンゴ砂の美しいビーチが弧状に続き、遠方の岬(川平石崎)と眼前のエメラルドブルーの海のコントラストが優れた自然景観を形成しています。また、ここ底地海水浴場は日本一早い夏を宣言する海水浴場として、観光客はもちろん、住民のレクレーションの場としても利用されています。
A magnificent natural landscape is formed by the striking contrast between the long arc of a beatiful, white coral sand beach with a cape in the distance (Kabira Ishizaki) and the emerald blue of the ocean before you. This bathing beach, Sukuji Beach, is the first in Japan to officially open for the swimming season each year and is a favorite recreational spot for not only tourists, but the locals as well.

屋戸引き屋(ヤドゥピキヤ)
1500年頃に活躍した豪族、仲間満慶山英極がまつられています。

川平貝塚
川平貝塚は底地海岸近くの小高い丘陵にあり、1904年に、鳥居竜蔵博士により調査が行われ、主に15~16世紀と推定される土器や石器、中国の青磁片などが発掘されました。その中から外耳土器と命名された、八重山地方の先史時代を解く鍵となる、学術的にも重要な土器が発見されています。国指定史跡。
底地海水浴場

底地海水浴場は、モクマオウの防風林に沿って白い砂浜が続く、遠浅の波の穏やかな海水浴場です。夕暮れも大変美しい浜です。

 

45.電信屋

電信屋碑文

碑文
 1895年(明治28)の日清戦争終結後、日本はその領有となった台湾との間に通信回線を敷設することにし、1896年(明治29)先ず鹿児島~沖縄本島との間に、次いで翌1897年(明治30)沖縄本島~石垣島~台湾間・石垣島~西表島間に海底電信線を敷設した。
これにより、本土~沖縄本島~石垣島~台湾間の通信回線網が完成した。
 当初、通信回線は陸軍省が管轄していたが、後に逓信省に移管され1897年(明治30)7月1日八重山郡大川村12番地に八重山通信所を設置し一般公衆電報の取扱を開始した。
以来この海底電信線は明治・大正・昭和の三代にわたって政治・経済・文化その他各分野の先駆けとしての重要な使命を、担っていたが太平洋戦争の戦災を受け昭和20年に破壊された。
 21世紀高度情報化社会の到来とIT新時代を迎え、電気通信システムも著しく変貌しつつあるが、この海底電信線の敷設された歴史的経過を永く残すため、海底電信線の陸揚げ地であるこの地に記念碑を建立する。
2001年12月吉日
電信屋記念碑建立期成会

電信屋記念碑

元海底電線陸揚室の
説明看板

元海底電線陸揚室
石垣市史跡
昭和61年9月25日指定

 俗にデンシンヤー(電信屋)と呼ばれているこの元海底電線陸揚室は、1897(明治30)年に建てられたもので、沖縄本島や日本本土、台湾間の通信に利用された海底線の中継地として約半世紀にわたり、その役割を果たしてきた所である。
 1895(明治28)年の日清戦争終結後、日本はその領有するところとなった台湾との間に軍用海底線を敷設する必要が生じたことから、1896(明治29)年、まず鹿児島と沖縄本島との間に、ついで翌97(明治30)年、石垣島を経て台湾との間に海底線を敷いた。これによって本土-沖縄本島-石垣島-台湾間の通信施設が完成したのである。なおこの年、石垣・西表間にも海底線が敷設された。
 開通したこの海底電信線は、当初陸軍省が管理していたが、のち逓信省に移管され、一般公衆用通信にも使用された。明治30年のことである。この年、石垣島では大川2番地に八重山通信所が設置され、一般公衆電報取扱いが開始されている。なお、太平洋戦争の際には連合軍の攻撃目標となった。無数の弾痕がこれを示している。
 なお、この地域で無断に現状を変更することは市条例によって禁止されています。
昭和62年10月
石垣市教育委員会
電信屋

電信屋は屋良部半島の大崎にあります。電信屋についての詳細は、電信屋記念碑のページを参照ください。

46.荒川のカンヒザクラ自生地 天然記念物指定碑

荒川のカンヒザクラ自生地の
説明看板

天然記念物 荒川のカンヒザクラ自生地
     昭和47年5月15日指定
 カンヒザクラは台湾、中国、石垣島に自生する落葉の高木であります。カンヒザクラは荒川の上流地帯、川に沿った所に点々とあって稚樹がほとんどなく老木が多い。
 この地域のカンヒザクラの花は2月頃咲き色は沖縄島のものより幾分淡いようです。
 周辺の植物は、ハマイヌビワ、クズノハガシワ、フクギ、ハクサンボク、エゴノキ、カキバカンコノキ、リュウキュウモクセイ、フカノキ、ヒカゲヘゴ、クロツグ、リュウビンタイ、ツルアダン、などがあります。
 この一帯は、基盤が花崗岩で桜の生育には適地であり、また琉球列島における桜の自生地がほとんど失われた今日、この地域のカンヒザクラの自生地は貴重であります。
 なお、この地域において許可を得ることなく、現状を変更し、または保存に影響を及ぼす行為をすることは法律で禁じられています。
                                             文部省
                                             沖縄県


※カンヒザクラは、日本で最も早く開花する桜のひとつで、沖縄では1~2月に開花します。
沖縄や奄美諸島で桜と言えばこの種ですが、開花は北から始まり南へ進むという特徴があります。
 普通の桜の花に比べて赤色が濃く、釣鐘状の形をしています。
 名前は寒い時期に咲く緋色の桜という意味です。ヒカンザクラ(緋寒桜)と呼ばれることもありますが、ヒガンザクラ(彼岸桜)と聞き間違いやすいので、カンヒザクラの呼び方が標準になっています。
天然記念物指定碑

この碑は荒川橋の傍(北側)にあります。

47.肥田埜勝美 歌碑

青葉木菟
遠し
二羽とも
谺とも
   勝美
青葉木菟(アオバズク):フクロウ目フクロウ科アオバズク属に分類される鳥です。一般には冬季になると東南アジアへ渡り越冬する夏鳥とされていますが、南西諸島では留鳥です。
谺:こだま

この碑は、於茂登トンネル北側出口すぐの西側(公園内)にあります。
なぜここにこの碑が建てられているのかは把握できていません。
俳人、肥田埜勝美(ヒダノ カツミ)は、大正12年に埼玉県に生まれています。

48.桃里恩田遺跡

史跡指定碑


県指定記念物(史跡) 桃里恩田遺跡
                 平成2年2月2日指定
 桃里恩田遺跡は、現在の大里村から星野村に通ずる道路の海側にあって、通称ぺーフ山と呼称される小高い丘陵上に位置し、すべて古第3紀前記石灰岩(宮良層群)によって形成されている。この岩石はコンクリートの原料に適していることより砕石が行われ、これを免れた所にかろうじて遺跡が残っている。
 1981年、石垣市教育委員会によって範囲確認のための試掘調査が実施されている。
 この結果、中国製の白磁、青磁と黒褐釉陶器、須恵器、八重山式土器等のほか、石器、鉄器、古銭等が出土した。これらのうち特筆されるのは、後になつて著名となった「ピロースクタイプ」と称される中国製白磁で、これはすでに当遺跡で出土していたことと、須恵器のなかでは裏面に青海波文様を有するがあり、これは県内における新資料とされ話題となった。
 八重山地域におけるいわゆる第三期の遺跡で14~15世紀の年代が与えられている。
 平成4年3月
    沖縄県教育委員会
    石垣市教育委員会
 当地区において、無断で文化財の現状を変更したり、保存に影響を及ぼす行為は、法律および条例で禁じられています。

※本遺跡指定碑等は、大里集落を過ぎ星野集落の手前で、右手採石場へ向かう小道を右折してすぐ左側にあります。(ちょっと分かりづらいです。)
桃里恩田遺跡説明看板

説明看板は下に落ちていました。 2011.07.08

 

49.米原のヤエヤマヤシ群落

「米原のヤエヤマヤシ群落」
説明看板

天然記念物 米原のヤエヤマヤシ群落
  昭和47年5月15日指定
ヤエヤマヤシ Satakentia liukiuensis (Hatusima) H.E.Mooreは世界中で石垣島、西表島だけに自生する1属1種のヤシです。かつては小笠原諸島のノヤシと同属と考えられていましたが、1964年に初島住彦氏によってノヤシ属の新種として記載されました。その後、H.E.Moore氏がヤエヤマヤシ属を新設し、この属に移しました。属名Satakentiaはヤシの研究家であった佐竹利彦氏の名前を記念しています。本種の近縁種は中国や、フィリピンには分布せず、地理的に遠いニューギニア周辺に分布しています。
 本種最大の自生地であるこの群落には多数のヤエヤマヤシが生育しており、中には樹高15~20m、胸高直径30cmに達する見事なものもあります。また、この群落内にはヤエヤマヤシの他に、ハマイイヌビワ、コニシイヌビワ、ホソバムクイヌビワ、ショウベンノキ、リュウキュウガキ、アカテツ、フクギ、ハブカズラ、コミノクロツグ、クワズイモ、ミカワリシダ、オオクサボク、トウツルモドキなどの植物が見られます。
 なお、この地域において許可を得ることなく現状を変更し、または保存に影響を及ぼす行為をすることは法律で禁じられています。
 文部科学省
  沖縄県
天然記念物指定石柱


説明看板
西表石垣国立公園(Iriomote-Ishigaki National Park)
西表石垣国立公園は、日本列島南西端に位置する国立公園です。西表島、石垣島、その間にはさまれたサンゴ礁の海(石西礁湖)と島々からなります。面積80%が亜熱帯林に覆われた西表島は、イリオモテヤマネコなど希少な野生動物も多く生息しています。優れた海中景観を持つ石西礁湖は、日本最大規模のサンゴ礁でその海域にサンゴ礁の隆起でできた竹富島、黒島などに沖縄独特の集落景観が観られます。八重山諸島の玄関口となる石垣島は、島の中心に亜熱帯の森林がまとまって見られる於茂登岳があるほか、沿岸には北半球最大規模のアオサンゴ大群落がある白保など優れた海中景観が見られます。
Located at the southwestern end of the Japanese archipelago, Iriomote-Ishigaki National Park consists of Iriomote and Ishigaki islands, Sekisei Lagoon (the coral sea between the two main islands), and several smaller islands. Iriomote island, 80% of which is covered by subtropical forests, provides ideal habitats for various rare wild animals including the endangered Iriomote wildcat. Sekisei Lagoon, which contains one of the largest coral reefs in the Japan, boasts spectacular underwater views. Typical Okinawan villages can be found on some of the raised coral islets, including Taketomi and Kuro. Ishigaki Island serves as the gateway to the Yaeyama Islands. It features clusters of subtropical forests, which cover its highest peak, Omotodake, at the center of the island. The shores of Ishigaki, including Shiraho Beach, which has one of the largest blue coral colonies in the northern hemisphere, offer breathtaking views to divers. 

米原園地 Yonehara area
米原ヤエヤマヤシ群落・イシガキニイニイ生息地保護 Yonehara Yaeyama Palm Tree Green / Platypleura albivannata M. Hayashi Cicada Natural Habitat Conservation Area
沖縄県最高峰の於茂登岳(526m)の麓にあり、発達した亜熱帯極相林が広がります。八重山諸島固有種のヤエヤマヤシ群落が分布し、絶滅危惧種であるイシガキニイニイの生息地でもあり、学術的にも非常に貴重な場所となっています。振り返ると、二重になった珍しいサンゴ礁の眺望が楽しめます。
A lush subtropical climax forest spreads around the foot of Mt. Omotodake, the highest peak in Okinawa Prefecture, rising 526 meters above sea level with groves of Yaeyama palm trees endemic to the Yaeyama islands and also as the habitat of the Platypleura albivannata M. Hayashi cicadas, an endangered species, this area is extremely valuable from a scientific standpoint as well. Look behind you to enjoy the view of a rare double reef,

ヤエヤマヤシ
八重山諸島固有のヤシで、自生地はこの米原と西表島2カ所の計3カ所にしかなく、いずれも国の天然記念物となつています。世界でも珍しい1属1種のヤシで、高くなると根元のまわりに赤みを帯びた不定根とよばれるものをたくさん出して、木を支えるようになります。

米原ダブルリーフ
名前のとおり、リーフが二重で、沖のリーフはとても珍しく丸い形をしています。ダイビングポイントとしても、利用頻度が高く、その海中景観は多種多様な魚類が生息し、枝状ミドリイシやユビエダハマサンゴの群落が観察できるサンゴ礁が素晴らしい海中景観として楽しめます。

崎枝鬼(サキダウン)
正体が鬼である姉を持った弟の話。浦底湾にある岩穴は、弟を追う鬼の姉が引っ掛かって動けなくなった場所で鬼家(ウンヌヤー)と呼ばれています。

禁止事項
絶滅危惧種イシガキニイニイの重要な生息地・生育環境を保全するため、生息地保護区では開発行為や木の伐採等が禁止されています。さらに、立入制限区においては、通年人の立ち入りも禁止されています。
ヤシ林を見上げた光景

50.伊野田入植記念碑

伊野田入植記念碑


(開拓の詩)


開拓の詩
  作詞 仲村喜信
  作曲 新城知子
一. 南野原入江より 北は玉取岬まで
  青き海原前にして その名うるわし伊野田村
二. もとはおそれし有病地 今は変わりてこの島も
  夜明さしこむ光うけ したいよりくる人もあり
三. 緑したたる原始林 拓き郷土をなさんとて
  はなうたまじりにくわをふる 励む我れらの楽しさよ
四. 後に連なる山々に 抱かれ育くむ我が郷土
  共に手をとり進まなん 永遠に幸あれ我が伊野田


伊野田集落は1951年10月31日、琉球政府の計画移民として宮古島や竹富町、沖縄本島・大宜味村から21世帯が入植しました。それ以前には台湾からの自由移民もあったそうです。初期入植者の名を刻んだ入植50周年記念碑が2001年10月31日に建立されています。
入植之碑(中央)

中央の尖った石碑は、入植25周年を記念して建てられたものです。

51.星野入植記念碑

入植記念碑


この碑は星野共同売店のそばに建てられています。土台の部分には入植者の氏名等が刻まれています。

星野集落は、昭和25年3月に集団移住として、沖縄本島の大宜味村、玉城村、宮古島の城辺町の方々の入植によって形成された集落です。
集落名の由来は当時の大浜町長・星克氏の「星」と、八重山民政府知事・吉野高善氏の「野」を取って、「星野」と名づけられたそうです。
人魚の像

 この人魚の像は、星野共同売店脇のトイレの上に乗っています。野原﨑の人魚伝説にちなんだものだそうです。

52.久松五勇士上陸之地

久松五勇士上陸之地の碑


同裏面(東側)より

久松五勇士
 上陸之地

元陸軍大将荒木貞夫書
 五勇士名
 垣花 善
 垣花 清
 與那覇 蒲
 與那覇 松
 與那覇 蒲

(裏面)
明治三十八年五月日露戦争の時ロシヤのバルチック艦隊宮古島沖通過の事を一刻も早く大本営に通報すべく時の宮古島島司橋口軍六の命により久松出身の五人の青年漁師は刳船に乗り九〇浬の荒波を力漕に力漕をつづけ石垣島にたどりつき「敵艦見ゆ」の打電をなし大任を果した この五人の青年の愛国心勇猛心責任感をたたえ永く記念するために此の碑を建てた
 一九六六年九月
 久松五勇士顕彰碑建立期成会
この碑は伊原間の牛そばで有名な「新垣食堂」の北側すぐの交差点を東側こ曲がり海岸方向に行くとあります。

※ 日露戦争時の明治38年5月25日、宮古島東方を北上しているロシアのバルチック艦隊を発見したという情報が宮古島司(地方行政官)に入り、大本営と連合艦隊に報告することとなりました。しかしながら当時、電信局は石垣島にしかなかったため、その報告を届けるよう依頼された宮古島・久松の漁師5人は、石垣島まで約170Kmの荒波の中を刳舟(サバニ)で15時間こぎ続け、ここ伊原間の浜に到着しました。その後、陸上を5時間かけて石垣島電信局まで走り電報を発信しました。
しかし、電報が連合艦隊に達したのは、信濃丸の「敵艦見ゆ」の報告よりも1時間遅れとなり、当時はあまり評価されることもありませんでした。
なお、宮古島の久松にもこの五勇士を讃える顕彰碑が建てられています。

53.玉取崎園地の説明看板

玉取崎園地の説明看板



西表石垣国立公園(Iriomote-Ishigaki National Park)
西表石垣国立公園は、日本列島南西端に位置する国立公園です。西表島、石垣島、その間にはさまれたサンゴ礁の海(石西礁湖)と島々からなります。面積80%が亜熱帯林に覆われた西表島は、イリオモテヤマネコなど希少な野生動物も多く生息しています。優れた海中景観を持つ石西礁湖は、日本最大規模のサンゴ礁でその海域にサンゴ礁の隆起でできた竹富島、黒島などに沖縄独特の集落景観が観られます。八重山諸島の玄関口となる石垣島は、島の中心に亜熱帯の森林がまとまって見られる於茂登岳があるほか、沿岸には北半球最大規模のアオサンゴ大群落がある白保など優れた海中景観が見られます。
Located at the southwestern end of the Japanese archipelago, Iriomote-Ishigaki National Park consists of Iriomote and Ishigaki islands, Sekisei Lagoon (the coral sea between the two main islands), and several smaller islands. Iriomote island, 80% of which is covered by subtropical forests, provides ideal habitats for various rare wild animals including the endangered Iriomote wildcat. Sekisei Lagoon, which contains one of the largest coral reefs in the Japan, boasts spectacular underwater views. Typical Okinawan villages can be found on some of the raised coral islets, including Taketomi and Kuro. Ishigaki Island serves as the gateway to the Yaeyama Islands. It features clusters of subtropical forests, which cover its highest peak, Omotodake, at the center of the island. The shores of Ishigaki, including Shiraho Beach, which has one of the largest blue coral colonies in the northern hemisphere, offer breathtaking views to divers. 

玉取崎園地 Tamatorizaki area
平久保半島・野底・玉取崎 Tamatorizaki, Nosoko, hirakubo Peninsula
玉取崎は平久保半島の基部、金武山の東方に位置する岬です。南方には民謡「月夜浜節」に謡われた「岸の浦(キシヌーラ)」または「南の浦(ハイノーラ)」と呼ばれる場所があります。展望台からは、山並みや牧野、自然海岸とエメラルドのリーフの雄大な連なりが一望できます。平久保半島の付け根、約200mのくびれた箇所は「船越(フナクヤー)」と言われ、かつては、海から海へと舟を担いで渡していたと言われています。
Tamatorizaki is a promontory to the east of Kimbudake, a mountain located at the base of the Hirakubo Peninsula. To the south of the promontry is a renowed beach referred to as Kishinura or Hainora in the traditional folksong Tsukiyohamabishi ( song of the moonlit beach ). The Tamatorizaki observation deck commands a panoramic view of mountains, meadows, natural beaches and emerald coral reefs. The peninsula to only about 200 meters across near its base, and the local fishermen used to carry their boats across this narrow strip ( called Funakuya, or boat passage ), rather than row all the way around the peninsula.

野底マーペー
西方に望む、とがった形が特徴の野底岳は、この山にまつわる、悲恋の物語のヒロインの名前をとって「野底マーペー」とも呼ばれます。過去の移住政策によって、恋仲をさかれたマーペーという娘が、黒島の恋人を思って野底岳に登ったが、於茂登岳にさえぎられて島の姿さえ見えず、絶望のあまり石になってしまったと言います。

船越(フナクヤー)
伝統の舟かつぎ船越(フナクヤー)は、旧暦5月4日に航海安全と豊漁を祈願する伝統行事「フナクヤー海神祭(ハーリー)」で再現されます。

月夜浜節
1 月夜濱だぎに
  岸ぬ浦ぬ木綿
  木綿花作てぃ
  木綿かしかきら
2 くりかえし 返えし
  指はぢき 見上ぎりば
  筋むつぃぬ 美らさ
  ゆみ美らさあむぬ
  吹かば飛ぶ手巾
玉取崎園地周辺は昔、綿花の畑が一帯に広がっていました。この歌は、畑に真っ白に咲き誇る木綿の花はまるで月夜の浜辺のようだ。真っ白な綿花を摘み、糸を紡ぎ、愛しいひとのために、極上の手巾を織りさしあげましょう、という内容です。
東屋


玉取崎展望台からの眺望
(北東側光景)

(南東側光景)

玉取崎の名前の由来は、その昔、この岬の沖で海難事故が多く、「魂を取られる」ことが多かったことから、「玉取」の名がついたそうです。

54.アイナマ石

アイナマ石の説明看板


アイナマ石

アイナマ石
アイナマとは可愛い花嫁のことです。
昔、川平村の美しい娘が平久保村に嫁に行くことになりました。
平久保村と川平村は遠く離れており、行き来するにはジャングルのけもの道や干潮時に海浜沿いに歩かねばならず、二日がかりでした。
親の勤めで、仕方なく承諾したものの、娘にとっては気の進まぬ結婚でした。
嫁入りのため平久保村に向かう途中、花嫁は用足しにといって茂みのなかへ姿をかくしました。
なかなか戻らないので、お供の者があたりを探しましたが、花嫁の姿はなく、昼なお暗い山奥には花嫁に似た冷たい石がひっそりと立っているばかりでした。
いつしか人びとは、この石のことをアイナマ石と呼ぶようになりました。
娘が悲嘆のあまり石化した伝説は他にもあり、石になった花嫁と呼ばれるアイナマ石の伝説も人頭税制度下で苦しんだ農民や女性たちのやりばのない悲しみと怒りが石を通して伝わってきます。


※ アイナマ石は平久保に入り、道路が上り坂になる辺りに案内板がありますので、
  ここを右折して山道を少し上ります。すると上の写真の道標がありますのでここに
  車を止め少し(150m程度)山道を歩くと着きます。
アイナマ石への道標


アイナマ石の遠景

55.明石開拓之碑

開拓之碑


(同裏面)

(開拓之碑裏面)
明石開拓団
昭和30年4月12日入植
入植30周年記念む事業として
昭和60年11月吉日建立

[以下]入植者の記載あり

開拓の詩(うた)
一.みどりの資源 海の幸
  未開の沃土 地下の富
  琉球の宝庫 八重山
二.産声高く 明石に
  集う我等は 開拓移民
  世紀の波に 今乗らん
三.未開の歴史 返り見て
  開ける道を 示さんと
  故郷を離れてはるばると
四.逢えば 一つの水心
  宝庫を開く 無限の力
  欲を忘れて一手一つ
五.若い血潮は みなぎりて
  共にひらかん ねむれる資源
  真実つくす時ぞ 今
六.スクラムくんで 開発に
  地の利を生かす その時に
  永遠の楽土は築かれん

 明石集落は戦後、主に沖縄本島の大宜味村や読谷村などから政府計画移民として入植された方々によって形成された集落です。集落名は入植当時、「赤石」でしたが、入植団によって「赤」を「明」に変え命名されたそうです。
開拓の詩の碑


開拓の像

この像は入植20周年を記念して制作されたものです。
 いずれも公民館脇の庭に設置されています。

56.暁之塔

暁之塔 碑文

暁之塔
横井忠男謹書

第二十八師団第三野戦病院跡

銘記
第二次世界大戦中昭和十九年十月我が第二十八
師団第三野戦病院々長陸軍々医大尉横井忠男
指揮石垣国民学校に病院業務開設間もなく八重山
高女並に八重山農業学校生徒を始め八重山在住の老若男
女数十名を臨時召集内外共筆舌に盡し難き恊力を得
て業務続行中戦況は昼夜を分たぬ空爆艦砲射撃の苛
烈を極め上旨に依り一部同校に残り主力を此の地開南部
落に一部を於茂登山腹に分散し事実上三ケ所業務の止む
なきに至り本土との航行通信は遮断され糧秣は愈々
無く伝染病と栄養失調を克服しつつ在島各部隊の
傷病将兵を収容看護の任に当る間敵弾に倒れ又
己の疾病もかえりみずついに不帰の人となりし
霊並びに軍民をとはず八重山の地に於て戦禍
に倒れし諸霊を合祀せる塔にして当病院生
存者の会(石垣会)有志並に在島有志各位
の浄財と多大なる奉仕によって建立し祖
国永遠の平和の礎と成し諸霊の尊き功
績をたたえ特に戦中倒れし我が病院勤務
の将兵準看護婦をここに記す
 戦没者(イロハ順)
  
・・・【以下略】・・・
暁之塔 遠景

この碑は、市街地から県道87号線を北上し、県道211号線と交差する所(開南入口)の西側にあります。

57.ミバエ根絶之碑

ミバエ根絶之碑

八重山群島
ミバエ根絶之碑
衆議院議員 中山貞則書


この碑は、農作物に大きな被害を与える害虫のウリミバエ・ミカンコミバエを根絶したことを記念したものです。県道87号線沿いの平得の開南ヘリポートのそばにあり、平成7年(1995)2月21日に除幕式が行なわれました。
駆除は、ウリミバエは「雄除去法」によって、ミカンコミバエは「不妊虫放飼法」によって根絶されました。現在でも
、東南アジア等の発生地域からの侵入の可能性があることから「不妊虫放飼法」による再侵入防止防除や、警戒用の誘引トラップによるモニタリングが続けられています。
今日、ゴーヤなどの沖縄県産野菜が内地で食べられるのも、ミバエの根絶がなされたことによるものです。
ミバエ誘引トラップ

この写真のトラップは、県農林水産部が西表島に設置したものです。

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