石垣島の石碑・説明看板(市街地)  更新 2015.05.16

下表の青字の部分が今回追記した個所です。

ここでは石垣島の市街地(石垣・登野城・大川・新川・新栄町・真栄里・平得・美崎・浜崎・八島町)にある石碑・説明看板について紹介します。

No. 名 称 場 所
1. 桃林寺仁王像 石垣
3. 権現堂 石垣
5. 八重守之塔 石垣・バンナ岳
7. 八重山音楽先師顕彰碑 石垣・バンナ岳
9. 道路元標 登野城
11. デンサ節の歌碑 登野城
13. 天川御嶽 登野城
15. 仲道の三番アコウ 登野城
17. 波多宮之碑 登野城
19. 臺灣農業者入植顕彰碑 登野城
21. 頌徳碑(甘藷伝来) 大川
23. 旧宮良殿内 大川
25. 八重山キリシタン事件 殉教の地 新川
27. ナータジーカーの頌徳碑 新川
29. 石垣氏庭園 新川
31. 冨崎観音堂 新川・冨崎
33. 米軍飛行士慰霊碑 新川・冨崎
35. 平和祈願之碑 新川・冨崎
37. 喜舎場永珣 顕彰碑 新川・冨崎
39. 世界平和の鐘 新栄町
41. 戦争放棄の碑 新栄町
43. 石垣市核廃絶平和都市宣言 新栄町
45. 宮良當壯の碑 新栄町
47. 雪見灯篭の説明碑 新栄町
49. 仲よしの像 新栄町
51. 新八重山音頭の碑 新栄町
53. 真栄里節の碑 真栄里
55. オウシマダニ撲滅之碑 真栄里
57. 高橋洋介顕彰碑 真栄里
59. 感謝の碑 平得
61. 月夜浜節 平得
63. 暁之塔 平得・開南
65. 大鷲像 美崎町
67. 大鷲の像公園の由来 美崎町
69. 宮良長包記念像 浜崎町
71. 大浜安伴生誕百年顕彰碑 浜崎町
No. 名 称 場 所
2. 桃林寺創建400年記念碑 石垣
4. 八重山戦争マラリア犠牲者慰霊之碑 石垣・バンナ岳
6. 長延翁頌徳碑 石垣・バンナ岳
8. 八重山島蔵元跡 登野城
10. 人頭税廃止百年記念の碑 登野城
12. 大濱信泉像 登野城
14. なかどぅ道ぬとぅばらーま歌碑 登野城
16. 米為御嶽 登野城
18. 石垣ダムの碑・石垣ダム竣工記念碑 登野城
20. 名蔵ダムの碑・慈雨豊穣の碑 登野城
22. 鷲ぬ鳥節 発祥の地 大川
24. 大濱信光詩碑 大川
26. (欠)
28. 新生井戸之碑 新川
30. ハンナーカーラ 新川
32. 宮良長包顕彰碑 新川・真喜良
34. 唐人墓 新川・冨崎
36. 平和祈念碑 新川・冨崎
38. World Peace Flameの碑 新栄町
40. ほほえみの鐘 新栄町
42. いしがきアピールモニュメント 新栄町
44. 非核平和宣言都市の碑 新栄町
46. 石垣市非核平和都市宣言 新栄町
48. 徳川家康六十歳像 新栄町
50. 親善之碑 新栄町
52. (旧)石垣空港の碑 真栄里
54. 真栄里アーンヌカー跡 真栄里
56. 開拓之碑(於茂登) 真栄里・於茂登
58. 種籾緊急増殖事業記念碑 真栄里
60. 平得アラスク村遺跡 平得
62. パイナーカー 平得
64. ミバエ根絶之碑 平得・開南
66. 石垣市民憲章 美崎町
68. 蘇澳鎮 石垣市 友好親善之碑 美崎町
70. ふるさとの風にのせて 浜崎町
72. 尖閣列島開拓記念碑 八島町

1.桃林寺仁王像

説明書き
吽形像:密迹力士

口を閉じた像です。
阿形像:金剛力士

口を開いた像です。
重要文化財(美術-彫刻)
桃林寺仁王像 二
元文二年(西紀一七三七年)文明氏久手堅仁屋昌忠の作。補佐役は上官氏川平仁屋正肖及び松茂氏小濱仁屋當明の両人。用材は八重山産ドシヌ(おがたまの木)である。
本像は戦前斯道の権威鎌倉芳太郎氏及び伊東忠太博士によってその芸術的価値を斯界に紹介された。
像は向って右は密迹力士、左は金剛力士である。
一.所在地 石垣市字二八五番地 桃林寺山門
一.文化財指定 一九五六年二月二十二日
一.管理者 桃林寺
社団法人 八重山観光協会


日本最南端寺院、八重山桃林寺の仁王像。現地産オガタマノ木を用いた寄木造りで琉球の人によって制作された現存最古の仏像。そのみなぎる力は堂々たるものである。
桃林寺の門


2.桃林寺創建400年記念碑

桃林寺創建400年
記念碑[表面]

[裏面]

[表面]
4百年記念碑
法燈連綿
南海山桃林寺

[裏面]
南海山桃林寺は薩摩の申し入れ
を受け 「仏法興隆者 本是
朕夙志也」 とする琉球国王
尚寧の命によって西暦一六一四
年に創建された、 八重山初の
仏教寺院で、起伏の多い歴史を
のりこえ今日に至っている

開山四〇〇年大祭
記念事業奉賛会
現住 昌道
前住 禅秀
平成二十六
甲子歳 清秋建立
花園 ●●●

●は判読不能

法燈連綿について
「法燈」とは、仏法がこの世の闇を照らすことを光に例えたもので、
「連綿」は途絶えずに続いていく様子を意味するものです。
碑の遠景

桃林寺は、石垣島では初めての仏教寺院です。
かつて八重山に社寺がなかったため、琉球に進攻した薩摩藩が尚寧王に進言して慶長19年(1614)に創建されました。祭神は熊野権現を勧請したもので、八重山における寺社建立の初めであり、貴重な文化遺産となっています。

3.権現堂

権現堂の碑文

権現堂(ごんげんどう)
     重要文化財
     国指定 昭和56年6月

 薩摩藩が尚寧王に寺社の建立を進言したことから1614年(慶長19)桃林寺と同時に創建された 祭神は熊野権現を勧請したもので 八重山における寺社建立のはじめであり 貴重な文化遺産である 切妻造りの薬医門 室内に土間を取り込み両脇に祭壇を配した拝殿 棟上の火焔宝珠 竜頭等細部手法に特色をもつ神殿からなり それぞれが軸線上に建造されている 御神木の宝鏡は銅製で琉球最古のものといわれ ほかに木彫りの仏像も併祀されている 1771年(明和8)の大津波により潰滅したが 1786年(天明6)に再建された その後 1882年(明治15)神殿を改建 1910年(同43)に一部修復された 太平洋戦争で大破したが1947年(昭和22)に修復 1973年(同48) 1978年(同53)に部分修理を加え 1985年(同60) 薬医門 拝殿 扉絵を含む神殿及び石牆を修理した
     昭和61年1月吉日
     石垣市教育委員会
権現堂

権現堂は市内・石垣地区にあり、隣は桃林寺です。

4.八重山戦争マラリア犠牲者慰霊之碑

八重山戦争マラリア
犠牲者慰霊之碑の碑文


八重山戦争マラリア犠牲者
慰霊之碑

 太平洋戦争の末期、沖縄県八重山地域においては軍の作戦展開の必要性から住民が悪性マラリアの有病地域である石垣島、西表島の山間部への避難を強いられ、過酷な生活の中で相次いでマラリアに罹患し、三千余名が終戦前後に無念の死を遂げるに至った。
 国は、終戦から五十年を経た平成八年度に、これら犠牲者の御霊を慰めるため、沖縄県へ「八重山地域マラリア死没者慰霊事業」の助成を行った。
 この碑は同事業の一環として遺族等からなる「沖縄戦強制疎開マラリア犠牲者援護会」の協力を得て建立されたものであり、遺族がその思いを込めて御霊の名を小石に記し碑の中に納めてある。
 この碑が八重山の戦争マラリア犠牲者の御霊を慰め、その悲惨さを後世に永く伝え、世界の恒久平和創造への礎となることを祈る。
平成九年三月二十九日
沖縄県知事 大田昌秀
協力 沖縄県強制疎開マラリア犠牲者援護会
     会長 篠原 武夫
意匠      潮平 正道
揮毫      玻名城 泰雄
八重山戦争マラリア
犠牲者慰霊之碑




八重山戦争マラリア犠牲者慰霊之碑は、バンナ公園入口に建てられています。

5.八重守之塔

八重守之塔碑文


合祀碑文

八重守之塔碑文
独立混成第45旅団隷下の各部隊は海軍の警備隊とともに八重山群島同胞と相携えて米軍の本土進攻に備えこの島に鉄壁の守備を整う。 昭和20年4月米軍沖縄本島に上陸するや孤立無援となり間断なき砲爆撃のもと食料等の補給全く杜絶しあまつさえマラリアのしょうけつ苦しき中に全将兵並びに関係住民は渾然一体となり堅忍不抜の意気に燃え死生を超越してよくその任を全うせり。 ここに南方同胞援護会の助成を得て碑を建て戦陣にたおれし勇士670柱の霊を慰め永くその功を世に伝う。
 昭和42年8月
 八重守之塔建立委員会

合祀碑文
昭和44年慰霊の日を卜してここに日露戦役より太平洋戦争に至る各戦役において戦陣に散華された八重山群島出身軍人軍属戦闘協力者ならびに学徒隊の英霊壱千余柱の八重守之塔合祀を奉告し謹んで慰霊の誠を捧げもって殉國の偉勲を永く世に伝う。�冀くば世界平和の礎となりて安らかに鎮まり給わんことを。
 昭和44年6月23日
 八重山市町村会
 財団法人 沖縄遺族連合会八重山支部
八重守之塔


八重守之塔遠景

右側が八重守之塔碑文で、左側が合祀碑文です。

6.長延翁頌徳碑

碑の外観 [正面]

[碑の裏面]


[碑の右側]


[碑の左側]
[正面]
長延翁頌徳碑

[裏面]
宮平長延翁ハ山陽姓第四世ノ偉人ニシテ西歴一六七四年八月廿日黒島首里大屋子長孝ノ二男トシテ誕生シ一七四九
年十一月十三日永眠セラル享年七十六歳 翁ハ天資英邁豪放磊落貧家ヨリ身ヲ越シ青年時代石垣頭ノ侮辱ヲ受ケテ
発憤シ蹶然立ツテ立身ノ方向ヲ替ヘ首里ニ遊学十年間苦学勉励其間?? 辱知ト学友ノ友愛ニ浴シ以テ将来スル有
意義ナル政治的背景を獲得セリ彼ハ蛍雪ノ功空シカラス若父子ヨ 黒島目差ヘ昇進シテ錦衣帰郷更ニ脇筆首仮脇引
差花城与人築登之座敷ト累進シ五十三歳ニハ黒島首里大屋子ヲ拝命シ黄冠御下賜ノ栄誉ヲ荷ヒ一七三二年五十九歳
ノ特八重山最高行政官タル大浜頭ノ栄職ニ敍任セラシ曽ツテ傲岸タリシ石垣頭ヲシテ愕然?若タラシム 一七三八
年八重山ノ林政並ニ治水土木工事ノ指揮監督官兼在番筆者島袋里之子親雲上カ越任セルヲ幸ニ翁ハ祖業ヲ継承スヘ
ク上國シテ今帰仁按司並ニ新道ノ権威者蔡温ヨリ林致学ト治水土木法トヲ学ヒ帰郷シテ島袋監督官ト共ニ造林計画
ト村別山境界図面及ヒ治水土木工事ノ設計図面等ヲ調製シ杣山機樹ヲ創設シテ役人ヲ配置シ山林原野ノ土地測量ヲ
完了シ林政ノ大事業二百年の計ヲ樹テ名蔵川白保川作原川等ノ治水土木工事ヲ断行シ以テ水利ヲヨクシ宝庫ノ開拓
ト生産増強ニ全魂ヲ打チ込ミタリ然ルニ此ノ難工事ニ要スル天役ハ巳定ノ数ニテハ目的達成ノ不可能ナルヲ知レル
翁ハ在番監督官ト協議ノ結果上司ヨリノ許可ノ未着前ニ更ニ天役ノ増加シ工事ヲ進行シ今日ノ良林相ヲ見ルニ至ル
噫翁ヲ讃ヘテ八重山ノ蔡温ト称ス又故アル哉 川良山道ハ祖父長重翁カ一六四九年頃私財ヲ投シ万難ヲ排シ開通サ
レシ大土木工事ニシテ之ノ川良山道ノ嚆矢タリナント年月ノ流レ先ニ道路ノ破損甚シク通行不能ナリシタメ翁ハ祖
父ノ素志ヲ貫徹スヘク一七四二年頃此ノ山道改修ノ大工事ヲ竣工シテ通行運輸ノ便ヲ計リ以テ今日アルモ得タル也
一七四五年翁ハ勲功ニ依リ尚敬王ヨリ表彰状並ニ賞品拝領ノ光栄ヲ得又一七四六年奥州ノ漂流者共ヲ厚ク介抱シテ
無事帰還セシメタル故ニ松平陸奥守ヨリ感謝状ト銀子三枚ヲ拝領セリ 翁ノ政治的聲望ヲ討シ常ニ凝視セル政敬等
ハ翁ヲ中傷シテ遂ニ政治的致命傷ヲ与ヘタ 翁ハ無実ノ罪ヲ負ハシ縲紲ノ身トナリ牢屋生活中死ノ勝利ヲ頌悟諦観
サレ無罪釈放ノ公報到ル寸前獄中ニ於テ自決セラル噫痛マシキ哉サント正義ハ永遠ニ亡ヒス萬古翁ノ血流を汲ム子
孫ヲ昌ヘシメ以テ翁ノ遺烈ヲ顕彰セシム天理ノ妙運命ノ綾絲凡智推量ノ外ニアリト云フヘシ 嗚呼時代ノ太陽ト讃
仰サレシ翁ノ偉業高潔ナル人格高邁具眼経世済民ノ鴻業ハ山林治水土木工事ニ光芒陸離潔然タリ 翁ノ遺徳ハ右
昆ノ亀鑑ト欽仰シテ惜カサル所以ナリ茲ニ山陽姓一門碑ヲ建テ其ノ高徳ヲ鎮ス
一九五一年昭和二十六年八月吉日


[右面]
頌徳碑建設者山陽姓
一門代表者医学士  宮良長詳
碑文起草者 喜捨場永珣
工事設計監督者 花城善箸

[左面]
碑文謹書者 宮良保備
碑文彫刻者 持増光雄
頌徳碑世話人 宮良高伴


この長延翁頌徳碑は、バンナ公園入口に建てられています。

7.八重山音楽先師 顕彰碑

八重山音楽先師 顕彰碑

先 師
真謝与人  用  格
高那与人  英  任
崎山与人  用  宗
小浜与人  英  暢
野底与人  英  普
真謝与人  英  敬
大浜仁屋  英  成
若文子    英  恕
講談師匠  安室孫師
当銘仁屋  由  教
石垣大首里大屋子 大浜用能
石垣仁屋  信  演
この碑は
八重山古典三味線音楽
先師の業績を永く
後世に顕彰するため
建立したものである
昭和四十五年二月十日
顕彰会建立期成会
会 長    糸数用著
副会長   漢那 長助
副会長   大濱 津呂
事務局長 桃原 用知
八重山音楽先師 顕彰碑は、「八重山戦争マラリア犠牲者慰霊之碑」の隣に建てられています。

8.八重山島蔵元跡

八重山島蔵元跡の説明看板

八重山島蔵元跡
Yaeyamajima kuramoto Historic Site
蔵元とは、首里王府が地方統治のために創設した政庁で、八重山のほかに宮古島と久米島に置かれていた。八重山島蔵元は、1524年、当時の八重山役人の最高職(頭職(カシラショク))を王府から任命された西塘(ニシトウ)が、出身地の竹富島に開庁したのが始まりとされる。しかし、交通の不便さや土地の狭さなどの理由から、のちに石垣島の大川村に移転し、1633年に、八重山キリシタン事件で処刑された本宮良(ムトゥメーラ)頭石垣永将(エイショウ)の屋敷跡である現在地に移転した。
 その後、1771年の「明和の大津波」で被害に遭い、大川村の高台の文嶺(ブンニ)に移転し、1775年には元の大川村のフンナに移り、1815年には、港と一体となった政治・経済・交通の中心地であった現在地に再び戻った。1879(明治12)年の廃藩置県後もなお存続し機能していたが、1897(明治30)年に廃止となり、八重山島蔵元としての370年余りの歴史を閉じた。
 その後、沖縄県の出先機関である旧八重山支庁など、近年まで行政庁がこの地に置かれていた。現在も、地中には石積み、礎石、柱穴など八重山島蔵元の遺構が残されている。


Kuramoto was a government office established by the Ryukyu Kingdom in order to govern Yaeyama and other areas. Government offices were also established on Miyako-jima and Kume-jima islands. The Yaeyama Islands Kuramoto is said to have its origins in the opening of a government office in 1524 by Nishito, who had been appointed by the kingdom to be the highest-ranking official of Yaeyama. This office was opened on Taketomi, the island of his birth. But because this site was inconvenient for travelling and the grounds were too small, the office was later relocated to Okawa-mura village on Ishigaki Island, and in 1633, was moved to the site of the former residence of Ishigaki Eisho, the head of Mutumera who was executed during the Yaeyama Christian purge. Following this, the structure was damaged by the Great Meiwa Tsunami in 1771, and was relocated to high grounds of Bunni in Okawa village. The office was returned to its former site in Okawa village in 1775,and in 1815,it was again relocated to return to this present site. Integrated with the harbor, this area was the political, economic, and transportation center of Ishigaki. Even after the new administrative policy for establishment of prefectures and abolishment of the domain system was adopted in 1879, this structure remained and continued to function. However, in line with the challenging times, the building was abandoned in 1897, putting an end to its over 370-year history as the Yaeyama islands Kuramoto. Following this, government administration offices such as the former Yeyama branch office of the government of Okinawa Prefecture were located here until just recently. Even now, masonry, corner stones, pillar holes, and other relics of the Yaeyama Islands Kuramoto still remain on the grounds.
八重山島蔵元跡の外観

八重山島蔵元跡は八重山博物館の西側にあります。

9.道路元標

道路元標の碑

この道路元標は、八重山島蔵元跡の碑のすぐそばにあります。
道路元標
Zero Milestone
道路元標とは、道路の起終点等の基準位置を定めた標石である。1920(大正9)年に施行された旧道路法で、各市町村に一つ置くこととされていたが、法改正により、その役割を終え徐々に姿を消していった。
 国内に現存する道路元標は、そのほとんどが戦前に設置され、法に基づき高さ60センチほどの四角柱状の石材に文字が彫られているのに対し、この道路元標は、コンクリート化粧仕上げのオベリスク型の標柱に銅製のプレートを組み込んだ形となっている。これは、戦後の米軍統治下に置かれていた八重山諸島政府の創立1周年を記念して設置されたものを復元したもので、その様式にはアメリカなどの影響が見られ、大変珍しく貴重なものとされている。
 また、設置当時の銅製のプレートには「1951年11月7日」の日付と「八重山群島政府」の名が刻まれており、戦後の行政機構の変遷を物語るものとなっている。
 なお、設置当時のプレートは、石垣市立八重山博物館に保管されている。

A zero milestone is a zero mile marker that indicates the position of the start or end of roads. The old road law that came into effect in 1920 made it mandatory for each municipality to have one milestone. But the role of milestones came to an end with the revision of this law, and one by one they started to disappear. Almost all of the zero milestones that still exist throughout Japan today were erected before World War Ⅱ, and based on the old law, take the form of a rectangular pillar made of stone standing about 60 centimeters high with letters engraved on the surface. In contrast, this zero milestone has a bronze plate embedded on an obelisk-shaped foundation made of decorative concrete. This zero milestone is a duplication of the milestone erected to commemorate the first anniversary of the Yaeyama Islands Government, which was established under the U.S. occupation after the war. Because American influences can be seen in the style of the milestone, it is said to be very exceptional and of high value. The date "November 7, 1951" and the words "Yaeyama Islands Government," which were engraved on the bronze plate when the milestone was erected, are testament to the changes in the administrative structure following the end of the war. The original bronze plate is now kept at the Ishigaki municipal Yaeyama Museum.
道路元標プレート(レプリカ)


オベリスク型の標柱

写真中央部に、道路元標を埋め込んだオベリスク型の標柱が見えます。
八重山諸島政府時代の
道路元標(オリジナル)

八重山諸島政府時代の道路元標
 道路元標は道路の起点を示す工作物で、旧道路法では市町村にひとつという位置づけで各所に設けられた。道路法が改正されると、道路元標はその役割を終え、徐々に姿を消していった。
 この道路元標は、旧八重山支庁内にあったものである。1951年、八重山群島政府発足から1周年の記念日にモニュメントが建てられ、「道路元標」と記された銅板が埋め込まれた。沖縄本島では、沖縄市(美里)や読谷村(喜名)にも残されているが、石垣のものとは異なり、板状に加工した石に文字が刻まれている。
このプレートは、石垣市立八重山博物館の展示室(入ってすぐ左手)に保管されています。

10.人頭税廃止百年記念の碑

人頭税廃止百年記念の碑
八重山人頭税廃止百年記念の碑
 近世から明治の後期に至るまで両先島(宮古・八重山)には、各個人に頭割りに課した人頭税があり、私たちの先人はその不合理で苛酷な税制のもとで苦境にあえいでいた。
 宮古島における先覚者らによる人頭税廃止請願運動の盛り上がりと、沖縄県土地整理事業の完了により明治二六年(1903)一月一日から新税法に移行し、人頭税は廃止となった。それを記念して八重山では群民あげての祝賀会が催された。
 人頭税廃止百年に当たり、先人の苦労を後世に伝えると共に、その歴史的意義に鑑み、ここに記念碑を建立する。
2003年(平成15)一月一日
八重山人頭税廃止百年記念碑事業期成会
石垣市立八重山博物館

人頭税廃止百年記念の碑は博物館正面左側にあります。

11.デンサ節の歌碑(作詩作曲益茂第五代目宮良里賢生家)

デンサ節 歌碑
歌碑
          作詩作曲
          益茂姓五世宮良里賢
デンサ節                        
意味
一.上原ヌ デンサ
  昔カラヌ デンサ
  島ヌ アルマディヤ
  イチィン 変ラヌ デンサ
上原のデンサ節は
昔から言い伝えらている教訓歌で
島のあるかぎり
いつまでま変わらないものである
一.デンサ節 作リ
  童子ケニ 言ザシ
  世間ヌ戒 シミナルスドウ
  バンヤ 願ユル デンサ
デンサー節を作って
子どもたちに詠ませ(歌わせ)
世間の戒めになるのを
願っている
一.車ヤ三寸ヌ 楔シドウ
  千里ヌ道ン 通ユル
  人ヤ三寸ヌ 舌シドウ
  大体ヤ 食イシティ デンサ
車は芯棒にある三寸の楔(くさび)で
千里の道も進む
人は三寸の舌で
大きな体を食べてしまう(身を滅ぼす)
一.言イザバ 慎シミ
  口ヌ外出タスナヨ
  出シカラ マタン
  含ミヤ ナラヌ デンサ
ものを言うなら慎め
口の外に出すなよ
出してから二度も
飲むことはできない
一.親子カイシャ 子カラ
  兄弟カイシヤ 弟カラ
  家内持チイ カイシヤ
  嫁ヌ子カラ デンサ
親子のよい関係は子供から(話を聞き)
兄弟のよい関係は弟から
家庭でのよい関係は
嫁の方から
デンサ節 歌碑全景

この歌碑は、桟橋通り沿いにある「サータアンダギーのサヨコの店」の角を東側に少し進んだ所にあります。
歌碑の横の角柱には、「デンサ節作詩作曲益茂第五代目宮良里賢生家」と記されています。

12.大濱信泉像

大濱信泉像

この訓は、銅像の下に記されています。
大濱信泉像
大濱信泉 訓

人の価値は
生まれた場所によって
決まるものではない
いかに努力し
自分を磨くかによって
決まるものである
末次一郎書

大濱信泉 記念館

大濱信泉記念館は登野城の美崎御嶽の南側、国道307号線沿いにあります。
大濱信泉先生生誕之地の碑

大濱信泉先生生誕之地

この碑は沖縄復帰促進に功績のあった 元早稲田大学総長大濱信泉先生を永遠に称える為寄贈したものである
沖縄協会々長  茅 誠司

大濱信泉先生の生家

大濱信泉先生の生家は登野城の美崎御嶽の近くにあります。

13.天川御嶽

天川御嶽 説明板

天川御嶽
     Ama-on Sacred Site / 天川御嶽
 天川(アーマー)とは、この地一帯の称で、古くは天川原(アーマーバル)と呼ばれていた。また、御嶽(オン)とは、村人の健康や村の繁栄などを祈願する聖地である。
 天川御嶽の歴史は古く、「八重山島由来記」(1705年頃)にも記されている。
登野城(トゥヌスク)村の伝承では、新城家(アーマーヤー)の祖先で霊験(セジ)高く篤農家でもあった野佐真(ヌサマ)が天川原の霊石(イビ)を信仰していたことから毎年豊作・豊漁に恵まれ、そのため村人たちにもその霊石を尊信するようになり、豊作・豊漁の神として信仰するようになった、といわれている。
 首里王府時代には、沖縄本島への貢納船に乗り込む役人の航海安全を祈願する七嶽(ナナオン)(美崎[ミシャギ]・宮鳥[メートゥル]・長崎[ナースク]・天川[アーマー]・糸数[イトゥカズ]・名蔵[ノーラ]・崎枝[サキダ])の一つとされていた。
現在でも折々の祈願のほか、旧暦六月には豊作への感謝と来る年の豊穣を祈る豊年祭が古式豊かに執り行なわれている。

"Ama" is the name of this region, and in times of old, it wa called Ama-baru. "On" is a sacred place where prayers are given for the health of the villagers and the prosperity of the village. The history of Ama-on goes back many years, and it is mentioned in the Yaeyama shimayuraiki (Origins of Yaeyama Islands, circa 1705). According to stories passed down over generations in Tunusuku village, Nusama an ancestor of the Amaya clan who was a hard-working farmer with spiritual ability to work miracles, worshipped the stone of Ama-baru, and because of this he always had abundant crops and big catches of fish. The villagers also came to believe in this spiritual stone and large fish catchers worshipped this as the god of plentiful harvests and fishing. During the era of the Ryukyu Kingdom, it became one of the seven sacred spots to pray for the safety of officials who boarded ships bearing tributes to the main island of Okinawa. The other sacred places were Mishagi, Metoru, Nasuku, Itukazu, Nora. and Sakida. Even today, people come here to pray for various things, and in June of the old lunar calendar, the ritual Hounensai, or harvest festival, is held to express thanks for the rich harvest and pray for a plentiful one in the following year.
天川御嶽 説明板

2010年6月に135年ぶりに建替えられました。

14.なかどぅ道ぬとぅばらーま歌碑

なかどぅ道ぬ
とぅばらーま歌碑
同裏面


同側面

(歌碑)
なかどう道から
ななけーら
かようけ
仲筋かぬしゃま
そうだんぬ
ならぬ


(歌碑の意味)
なかどう道から七回通うけれども、仲筋家の愛しいあの娘は話を聞いてくれない。(縁組が叶わない)

※ 八重山の代表的な郷土芸能の一つでもある「とぅばらーま」の発祥地と言われる、「なかどぅ道ぬとぅばらーま歌碑広場」に、この碑はあります。
「仲道道(ナカドゥミチィ)」とは、昔、登野城村から真栄里村に通じる道の呼名です。現在、この歌碑の前には大きなアコウ(オオバアコウ:通称「三番アコウ」)の木が立っています。


(裏面)
流れる才月
移りゆく人の心
大阿香の下に昔を
偲ぶよすがとして
この碑を建てる
 昭和五十五年九月
  登野城
  平得
  真栄里

(側面)
碑文揮毫 佐久本省吾
碑石寄贈 山川朝源
刻   字 崎山寛治
三番アコウの木

右手奥に「なかどぅ道ぬとぅばらーま歌碑」が見えます。

15.仲道の三番アコウ

仲道の三番アコウの碑
 石垣市指定文化財/史跡
 City Designated Cultural Property Historical Site
 仲道の三番アコウ (なかどうのさんばんアコウ)
 The Third Akou Tree of Nakado
                 平成3(1991)年11月13日
                 November 13, 1991 designated
 この巨樹は、三番アコウと呼ばれ親しまれて推定樹齢200から250年のオオバアコウである。
 仲道とは字登野城の小字名で、三番アコウが生えるこの場所は、登野城から平得、真栄里への道路の分岐点にあり、古くから道しるべとして、また、アコウが作る心地よい木陰は、農作業帰りや行商の人々の憩いの場として親しまれてきた。かつては、三番アコウから西100mの道路の分岐点に二番アコウ、さらに西100mの分岐点に一番アコウが生えていたが、現在は三番アコウのみが残っている。
 三番アコウの側には、八重山を代表する民謡「トゥバラーマ」の歌碑が建っており、仲道にゆかりのある歌詞が刻まれています。
          平成26(2014)年3月 石垣市教育委員会
                      文化財課 83-7269

A giant tree (Ficus caulocarpa) estimated to be about 200-250 years old, it is located at the crossroad that leads to the Hirae and Maezato districts from the Tonoshiro district. Since long ago, this tree has been a landmark for the local people and a familiar spot for relaxation. There used to be one tree at the junction on the east end of a road in the Tonoshiro district and second tree at a junction 100 meters east of the first, but both trees have withered and died. Next to the Akou tree is a monument inscribed with a poem "Tubarama", a lyrical song that represents Yaeyama, and lyrics related to Nakado is carved.
三番アコウの木

16.米為御嶽

米為御嶽の説明板

米為御嶽のイビ門
 石垣市指定文化財/有形民俗文化財
 City Designated Cultural Prorerty / Tangible Fork Cultural Property
 米為御嶽(いやなすおん)
 Iyanasu On
              平成3(1991)年11月13日指定
              November 13, 1991 designated

 米為御嶽は、八重山にはじめて稲作を伝えたとされる兄タルファイ、妹マルファイのうちマルファイの墓とされ、のちの人々が稲作を伝えた神として尊崇し、御嶽として信仰されるようになったといわれる。御嶽とは人々の健康や地域の繁栄などを祈願する聖地のことで、米為御嶽は字登野城の御嶽として信仰されている。また、タルファイの墓も同様に尊崇され、大石垣御嶽(ウシャギオン)として字大川の人々に信仰されている。
 伝承によれば、タルファイ・マルファイは安南(現在のベトナム)のアレシンという所から稲種子を持って来島し、登野城の小波本原(クバントゥバル)に住居し、水田を開いて島民に稲作を指導したとされる。登野城の種子取祭や豊年祭などの農耕儀礼は、この御嶽と兄妹の住居跡とされる小波本御嶽を中心に、現在でも古式豊かに執り行なわれている。
 なお、この地域において許可を得ることなく現状を変更し、または保存に影響を及ぼす行為をすることは石垣市文化財保護条例で禁じられています。
              平成26(2014)年3月 石垣市教育委員会
                          文化財課83-7269

Tai phi and Mal phi are two siblings who were the first to introduce rice growing to the Yaeyama region. It is said that the Iyanasu On (sacred praying site) is grave of Mal phi that became worshiped by the future generations. The grave of the Tal Phi is similarly worshiped by the local people as the Ushagi On.
米為御嶽の遠景

米為御嶽は石垣市中央運動公園の西側に位置しています。

17.波多宮之碑

波多宮之碑(正面)

同拡大

説明石碑
【表面】
波多宮之碑
入植五十周年記念

【裏面】
入植者
(省略)
わらび会会員
(省略)

[説明石碑]
バラビドーの地は波照間島(波)
多良間島(多)、宮古島(宮)か
ら移り住んで、この地を切り拓い
た。
 私たちは入植五十周年記念を迎
え、後世にその歴史を伝承し、バ
ラビドーの発展を願い、ここに、
波多宮之碑を建立する。
 二〇〇〇年十一月
 バラビドー住民一同

[建立日碑]
二〇〇〇年十一月二十六日建立

バラビドーの名前の由来
 昔、この辺りには、ワラビが沢山生えていたそうで、その中に道を通した事からワラビの道(ドー)と呼ばれ、それが今日では、バラビドーになったそうです。
(因みにワラビを石垣島の方言でバラビと言うそうです。)
波多宮之碑(裏面)

入植者プレート

この碑はバラビドー観光農園の近く(北西方向:バンナ公園北口への道沿い)にあります。

18.石垣ダムの碑・石垣ダム竣工記念碑

石垣ダムの碑

諸元プレート
【上段】
石垣ダム

【下段】
区分 名称 諸元
一般 位置
河川名
沖縄県石垣市字登野城平得
磯辺川
貯水池 流域面積
総貯水量
有効貯水量
設計洪水位
常時満水位
満水面積
     1.54 Km2
  420,000 m2
  480,000 m2
 EL 53.00 m
 EL 52.00 m
    0.065 Km2
堤体 型式
堤頂標高
堤高
堤頂長
堤頂幅
傾斜コア型アースフィルダム
 EL 55.00 m
    18.50 m
    65.00 m
     5.00 m
洪水吐・取水工 設計洪水量
取水型式
設計取水量
取水口径
    65.00 m3/sec
スルースゲート|門斜樋
    0.981 m3/sec
    Φ 600 mm

【石垣ダム竣工記念碑】
石垣ダム竣工記念碑
ダムの高さ 16.18m
ダムの長さ 61.00m
満水面積  7.80ヘクタール
最大推進  14.18m
貯水量    571.768m3
灌漑面積  137.200ヘクタール
建設工事  1961年5月より1962年4月まで
発注者    琉球政府
施工者    西里建設 西里松次郎

石垣ダム竣工記念碑


石垣ダムは、石垣島内に5つあるダムの内、唯一返還前の琉球政府によって建設されたものです。(その後、改修済)

19.臺灣農業者入植顕彰碑

臺灣農業者入植顕彰碑
【表面中央】

同【裏面1】

同【裏面2】
【表面】
臺灣農業者入植顕彰碑

【裏面右プレート】
顕彰碑高額寄付者
(以下、省略)

【裏面左プレート】
建立 台湾農業者入植顕彰碑建立期成会
会長 伊波剛
竣工 2012年8月1日(パイナップルの日)
揮毫 豊平峰雲
碑石寄贈 福本秋語
施工 崎山石材


【隣の説明石碑:表面
パイナップル産業と水牛導入の功績を称える
 台湾中部の台中や員林地方の大同パイングループは、一九三五年(昭和
一〇年)、パイン生産の新たな活路を求め石垣島の名蔵・嵩田地区に入植
しました。林発氏らを中心に大同拓殖株式会社を設立、六〇戸、三三〇人
を呼び寄せ、幾多の困難を乗り越えパイン生産に成功し、一九三八年夏、
初めて缶詰を本土に出荷しました。しかし戦時体制下でパイン栽培は禁止
となり、工場も日本軍の兵舎にとられ、敗戦で廃業しました。

 工場を失った林発氏や廖見福氏らは、パイン産業を再興するため秘かに
保存していたパイン種苗の普及を図り、家内加工による缶詰生産を再開し
ます。時の琉球政府のパイン奨励、日本政府の輸入関税免除で、栽培は飛
躍的に広大、格好の換金作物として、沖縄本島や宮古からの入植者たちの
生活も支えました。やがて生産は沖縄本島北部へも広がり、さとうきびと
並ぶ二大基幹作物に成長、最盛期には全沖縄で二一工場となり、日本復帰
前の沖縄経済を担いました。

 水牛は一九三三年に台湾からの移民により農耕用に三〇頭が導入され
たのが始まりです。
これが繁殖して普及、八重山の農業生産の向上に大きく貢献しました。
 よって私たち市民・県民有志は、パイン産業と水牛を導入した台湾農業
者の功績を称え、ここに感謝をこめ顕彰碑を建立します。

 二〇一二年一月 台湾農業入植者顕彰碑建立期成会

(以下、同一内容で繁体字で記載=省略) 

同【裏面】
撰文 三木健
中国語訳 渡邊ゆきこ 呉俐君



【牛のレプリカ】
寄贈 水牛レプリカ
琉球華僑総会
パイナップル産業と
水牛導入の功績を称える碑


同裏面


顕彰碑は台湾で制作されました。この顕彰碑は名蔵ダム左岸・南側駐車場にあります。

20.名蔵ダムの碑・慈雨豊穣の碑

名蔵ダムの碑

同拡大
【名蔵ダムの碑】
名蔵ダム

【慈雨豊穣の碑】
慈雨豊穣
 昭和四六年の、連続干天日数
一九一日にも及ぶ大干ばつによ
り石垣島の農業は壊滅的な打撃
を受けた。
 そこで、農業用水を確保する
慈雨の水瓶として、この地にダ
ムを築造した。
ひこの事業を契機としての石垣
市の将来の姿について、名蔵小
・中学校生徒により考案された
絵画を記念サークルとして残す
ものである。
 平成十一年二月
 沖縄総合事務所
 石垣農業水利事業所
慈雨豊穣の碑

同拡大


この顕彰碑は名蔵ダム左岸にあります。

21.頌徳碑(甘藷伝来)

頌徳碑碑文

同側面

頌徳碑
碑文 カタカナ→ひらがな
波照間高康ハ大史姓第五代目ノ大
偉人デ西唐一六九四年(元禄七年
)西表首里大屋子時代公用デ首里
ヘ出張セラレ公務ヲ終エテ八重山
ヘ帰ル途中台風ニ逢イ清國ノ鎮海
ニ漂着シタガ幸ニ厦門将軍大老命
ト面会シ「黄ハンス芋」ノ貴重ナ
ル食糧作物タルコトヲ始メテ知リ
其ノ種子ヲ頂キ大事ニ持ッテ琉球
本島ニ安着シ直チニ薯種子ヲ垣花
ニ仮植シ琉球本島ヘモ分ケ與エソ
レカラ無事ニ帰郷シテ移植シタノ
ガ八重山ニ於ケル甘藷傳来ノ始メ
デアル爾来八重山ハ凡エル災難ニ
逢ッテモ芋ノ恵ミニヨッテ救世セ
ラレテキタノデアルココニ於テ島
民ハ芋ノ恩恵ニ浴スルト共ニ翁ノ
偉功ノ崇高ナルヲ深ク肝銘シタノ
デアル翁ハ八重山産業ノ大恩人デ
アリ其ノ偉徳ハ永ク後世ノ亀鑑ト
ナル茲ニ全住民ノ喜捨浄財ニヨリ
碑ヲ建テ其ノ功徳ヲ讃仰スル次第
デアル

一九四七年(昭和二十二年)
 十月二十二日
(旧九月九日重陽節句)
頌徳碑建立委員会 大濱用立
大史姓一門総台  吉野高善
文喜舎場永珣
現敷地移轉 昭和四十七年十月十五日
 波照間高康は大史姓第五代目の大偉人で西唐1694年(元禄7年)西表首里大屋子時代公用で首里へ出張せられ公務を終えて八重山へ帰る途中台風に逢い清國の鎮海に漂着したが幸に厦門将軍大老命と面会し「黄ハンス芋」の貴重なる食糧作物たることを始めて知り其の種子を頂き大事に持って琉球本島に安着し直ちに薯種子を垣花に仮植し琉球本島へも分け與えそれから無事に帰郷して移植したのが八重山に於ける甘藷傳来の始めである。
 爾来八重山は凡える災難に逢っても芋の恵みによって救世せられてきたのである。
 ここに於て島民は芋の恩恵に浴すると共に翁の偉功の崇高なるを深く肝銘したのである。
 翁は八重山産業の大恩人であり其の偉徳は永く後世の亀鑑となる。
 茲に全住民の喜捨浄財により碑を建て其の功徳を讃仰する次第である。


1947年(昭和22年)10月22日
(旧9月9日重陽節句)
頌徳碑建立委員会 大濱用立
大史姓一門総台  吉野高善
文喜舎場永珣
現敷地移轉 昭和47年10月15日
頌徳碑遠景(正面)

同側面

「頌徳碑」は石垣島字大川の大石垣御嶽の側にありましたが、現在は八重山農林高等学校の東側の交差点の隣に移設されています。

22.鷲ぬ鳥節 発祥の地

「鷲ぬ鳥節
発祥の地」の碑


鷲ぬ鳥節 発祥の地

歌詞
一.綾羽ば 生らしょぅり ぶいる羽ば 産だしょぅり
一.正月ぬ すいとぅむでぃ 元旦ぬ 朝ぱな
一.東かい 飛つぃけ 太陽ばかめ 舞つぃけ


(意味)
一.綾なす羽の鷲の子を 産みまして
  美しく艶やかな羽の鷲の子を 孵しまして
一.正月の 早朝に 元日の 朝まだきに
一.東のほうへ 飛んで行き 太陽を戴いて 舞って行き

※ 正月の太陽に向かって鷲が羽ばたく様子を悠然と歌った「鷲ぬ鳥節」は、お目出度い歌として宴会の座開きや祝いの門出などの場面でよく歌われます。
「鷲ぬ鳥節」の歌詞

この碑はユーグレナモール内にあります。ここが八重山民謡「鷲ぬ鳥節(ばすぃぬとぅるぃぶし)」の発祥地とされています。

23.宮良殿内

重要文化財指定碑
重要文化財建造物 旧宮良殿内(めーらどうぬず)
         名勝 旧宮良殿内庭園
                     国指定 昭和47年5月15日
 文政二年(1819年)松茂(しょうもう)氏八代宮良親雲上当演(ぺーちんとうえん)が宮良間切頭職(まぎりかしらしょく)(八重山最高の役職)に任命されたことを記念に建造されたといわれる。上級武士の格式を備えた構えである。 建物は木造平屋づくり本瓦葺きである。 材料は総イヌマキで雨端(あまはし)柱(方言ハナシバーヤ)は根付丸太を使用している。 屋敷は琉球石灰岩の石垣で囲い、南西の中央に薬医門型式の門を建て、その西端に裏門を築いてある。 表門を入ると築地塀のひんぷんがあって、中門を開ける。 敷地のほぼ中央に主家を配置しその東側には石を組み築山を築いた庭園がある。 南東部に築地塀で囲った便所を設け、表門と裏門の間に井戸を造ってある。
 庭園は首里の庭園師城間親雲上(ぐすくまぺーちん)の設計指導によるもので、琉球石灰岩を主材料に五つの築山を築いている。 これは日本庭園の伝統様式を踏襲するもので日本庭園文化の伝播をみる上で貴重であるばかりでなく、わが沖縄の近世における上流階級の屋敷構えの中における庭園として最もよく保存されている。
                   石垣市教育委員会
                        昭和61年3月
宮良殿内 主屋
史跡指定碑
史跡 宮良殿内庭園
                   昭和47年5月15日 国指定
 この庭園は文政二年(1819年)ごろ、八重山の頭職の地位にあった松茂氏八世当演のとき、作庭されたと考えられます。珊瑚石灰岩を主材料として五つの築山を、北を高く南に向って次第に低く築いています。この山と三の山との間に枯滝を落とし、三の山と四の山の間に石の反橋を架け、四の山と五の山は岩島風に作られています。また前面に平らな砂池とし、庇下には左手に一群の岩を組み、右手に蹲踞を、特に砂岩を用いて構えてあります。
 この庭園の構成の基準となっている地割は、日本庭園の伝統様式を踏襲する沖縄近世における上流階級の屋敷構えの中における庭園として最もよく保存されているものの一つです。
                   沖縄県教育委員会
                        昭和52年3月31日
宮良殿内庭園

24.大濱信光詩碑

上段の碑


下段の碑

[上段]
大濱信光詩碑
石垣

いつの頃からか ふるさと人(びと)は
石垣にかこまれた生活(くらし)を始めたろうか

雨がふれば
苔はふくらみ
陽が照れば
しっぽの青いとかげも匍い出た

ああ 若い母が上布を織ろうと
石垣の穴に竹をさしこみ
糸をのべたはるかな少年の日

[下段]
 大濱信光詩碑
 大濱信光は一九〇二(明治三十五)年十二月七日、沖縄県石垣市字大川のこの場所で生まれた。信光は早くから文学的才能を発揮し、沖縄県立師範学校時代には作曲家宮良長包とのコンビによる「嘆きの海」や「泊り舟」などを作詞、その後教職の傍ら、文芸同人誌を発行、戦後は八重山において総合雑誌や日刊紙を発刊するなど、地域の文化活動において中心的な役割を果たした。
 一九七九年(昭和五十四)年に七十七歳で発刊した処女詩集「先島航路」は、「沖縄近代史の大きな収穫」と高く評価された。
 信光は本名のほかに白濱冷夢、浜間晃一郎、深見鮫一郎などのペンネームをもっていたが、特に白濱冷夢の名は遠く九州まで知れわたった。信光の詩は卓抜な比喩と構成とみずみずしい感性にあふれており、「詠嘆の詩人」「海洋詩人」とも呼ばれた。
 没後二十六年目の本年三月に発行された「大濱信光全詩集」には、高みを極めた最晩年の詩群と共に、学生時代からの詩歌に加えて俳句・短歌・小説・戯曲・エッセーなども収録され、信光の文学業績のほとんどが網羅されている。信光は戦後の疲弊した郷土・八重山を励ました作品から、「民心に明かりを灯す責任を自覚した詩人」とも評されている。一九八三(昭和五十八)年十一月三十日八十一歳で永眠した。
    二〇一〇(平成二十二)年十一月三十日
    大濱信光詩碑建立期成会
    会長 山田 隆一
    揮壱 玉代勢忠雄
碑の外観


碑の前の通り

この詩碑は大川の大濱信光の生家があった場所に建てられています。

25.八重山キリシタン事件 殉教の地

「八重山キリシタン事件
 殉教の地」の碑


赤い琉球瓦の祠

左右に霊石があります。
八重山キリシタン事件 殉教の地
 一六二四年に石垣島冨崎の沖に漂着した宣教師ファン・デ・ロス・アンヘレス・ルエダ神父によって八重山にキリスト教がもたらされ嘉善姓一門を中心にひろまったが国禁であるキリスト教を信仰したとして「八重山キリシタン事件」と呼ばれるキリシタン弾圧事件がおこった。
 一六二四年、宮良親雲上永将は首謀者として当地(オンナー)において焚刑に処せられ、財産は没収。子孫は波照間島や与那国島、宮古島に流された。ルエダ神父は、琉球王国に連行されたのち粟国島へ流刑となり、そこで殺害された。
 一六二九年にはトマス・デ・サン・ハシン西六左衛門神父が日本への密航の途中に石垣島に立ち寄り、永将の弟宮良頭の永弘や大城与人安師と接触したとして翌年ふたりは琉球王国へ連行された。永弘は渡名喜島へ流刑となり、一六三五年に焚刑に処せられるが、安師は慶良間島へ流刑となった後に赦されて帰島する(一六四二年)。
 さらに、一六三八年には宗門改めの踏み絵により永将の弟の宮良与人永定がキリシタンとして永将同様当地(オンナー)で焚刑に処せられた。
 この一連の事件は薩摩侵入(一六〇九年)後の琉球唯一のキリシタン弾圧による殉教事件である。
 本宮良の主と呼ばれた永将翁が処刑されるときに歌ったとされるのが「大野ダキアヨウ」である。
 祠の中の霊石は、焚刑に処せられた本宮良の主永将翁と宮良与人永定翁のものと伝えられる。永将翁の紋所「四つ巴」は心の字数を表しているといわれる。
 二〇〇四(平成一六)年十月二二日(旧九月九日)
                      嘉善姓一門会
よく整備された庭

この碑は桃林寺の西方(79線沿い(新川54番地)にあります。

この事件をきっかけに、スペイン・ポルトガル船の来航を排除する海防体制が強化されました。また、薩摩藩・徳川幕府による琉藩支配が一段と厳しくなり、琉球王国が被支配者であることがより明確となっていきました。

26.(欠)

27.ナータジーカーの頌徳碑

ナータジーカーの頌徳碑

 
[上段]
頌徳碑

[下段]
この井戸は古来凡そ貮百年前
に大工家の祖先が住民のため飲
料水用として掘り出された由緒ある
井戸(ナータッカー又はインヌカー)と
呼ばれ石垣市上水道の出来るまで
使用されてきた井戸であります
そこで祖先の偉業を永遠に讃えここに
頌徳碑を建立す
昭和五拾参年六月
井戸主 大工安五郎
発起人 大江高英
外親族一同
ナータジーカー

ナータジーカーは市街地から川平に向う79号線沿い(新川地区)にあります。

28.新生井戸之碑

新生井戸之碑


碑文


裏面

[上段]
新生井戸之碑


[下段]
往時 長崎家の祖が漁猟のためこの杜の辺りを往還するたび樹々の間に怪しい火の明滅をみたので杜にわけ入り光の発するところを尋ねたところそこには夫婦石があつた。 思うにこの石は神のよりましの霊石にちがいないと考え爾来この霊之日参し礼拝信仰した。
ある年八重山は農作物の不作で収穫のほとんどない凶作であったが不思議なことには独り長崎家の農作物ばかりは豊かに稔ったので日頃篤く崇う杜の神のあらたかな霊験だとし初穂神酒を供えその恵みの感謝を捧げた。
この話を伝え聞いた村人はこぞって聖なる杜に額づくようになりひとしく神の霊徳に浴したので一社を建立益々信仰を深めるに至った。 ここがすなわち八重山御嶽七山の一つとして崇められる長崎御嶽である。 さるほどにこの杜への神降臨があったのち霊石の鎮まり給う西方に突然美しい霊泉の涌出があった。 人々はまさに神のみわざだと喜びこれを掘り下げ井戸を築き神に手向ける浄水を汲む井とし新生井戸(アラマリナー)と称した。
宝暦七年(一七五七)石垣村から新川村が分村したときこの新しく生れた井戸の名前を村名にして新川村と命名したと伝承されている。
 昭和五十四年(西暦一九七九)六月廿三日建立
 新川字会長 冨田孫秀謹書


[裏面]
碑建立実施者
神司 長崎初
仝 崎枝キヨ
仝 我謝 初
仝 黒島 薫
聖域寄贈 宮良長和
新川出身
工事提供 上原長義
協賛   新川字会
新生井戸


新生井戸外観

新生井戸は長崎御嶽の西方の少し離れた場所にあります。周囲は緑の木々に囲まれています。

29.石垣氏庭園

石垣氏庭園の碑

石垣氏邸門

同上(逆方向)
石垣氏庭園
                        国指定名勝 昭和58年10月27日指定
 この庭園は、わが国の日本庭園のうち最南西の位置にある庭園で沖縄の名園のひ
とつです。
 1800年頃八重山の大浜間切頭職の地位にあった石垣家の祖先である大浜親雲
上のときにつくられたと伝えられています。庭園は琉球石灰岩を主な材料とし、五
つの集団石組を北から南へと順に低く築いてあります。これらを石段や石橋をつな
ぎ、所によって枯れ滝を落し、岩島を配しています。
 のき下の左手には一群の石組み、右手には砂岩の手水鉢が置かれています。庭園
の背後にはフクギ、築山にはソテツを植え込むなど、日本庭園の伝統様式を踏まえ
ながらも、地方色豊かな枯山水庭園として独特の趣をみせています。
 この庭園は、八重山における近世上層階級の屋敷構えと庭園を知る上でも貴重で
あるばかりでなく、日本庭園の伝播をみる上でも価値のあるものです。
 平成2年3月   文部省
            沖縄県教育委員会

石垣氏庭園は石垣市字新川にあり、1983年に国より名勝に指定されました。
かつて、琉球の邸宅及び庭園等はその家柄の位階等によって格式が規定されていました。この庭園は石垣家の祖先大浜親雲上(おおはまペーちん)長演が大浜間切の頭職(八重山の最高の役職)当時、首里の庭園師城間親雲上(ぐすくまぺーちん)の構図・設計監督により日本石山の法式をもって創建したものとされています。庭園師城間親雲上は宮良殿内の設計を行ったことで知られています。
地元の琉球石灰岩を使用し、フクギやソテツなども利用した庭園は、宮良殿内とともに八重山の二大名園で、枯山水の日本庭園の様式を取り入れつつも、八重山独自の様式の庭園を知る上で貴重なものとなっています。
石垣氏庭園



石垣氏庭園は桃林寺の北150mの所にあります。

30.ハンナーカーラ

ハンナカーラの説明板
ハンナカーラ
 ここはハンナカーラとよばれ、清冽な湧
泉による小川で、戦前までは通行人の水のみ
場であり、いこいの場所であった。
 一帯は田原またはハンナー原とよばれ、附
近には稲作や雨乞い神事の祭場、集団苗代、
牧場ゆかりの牛の御嶽、川平への一黒塚など
があり、新川村の重要な農牧地であった。
また明和大津波(一七七一)後の八重山の復興
に力をつくされた与那覇在番の宿舎も、すぐ
東の安高原にあった。
 ハンナーという地名は、一七世紀に連続四
代も石垣頭職を排出した名門ハンナー家ゆか
りの命名のようで、石垣四ケ村から川平への
県道は、この水のみ場の前を西北方に向かっ
ていた。
 昭和六三年二月三日建立
 創価学会

ハンナカーラ

ハンナカーラは県道79号線沿いの、八重山文化会館の近くにあります。

31.冨崎観音堂

冨崎観音堂 説明板

同遠景

        石垣市史跡
        昭和62年3月26日指定

 冨崎観音堂は、乾隆(1742)年、順天氏第4世西表直香が冨崎原に堂宇を造営して観音像3体を奉安し、庶民の航海安全祈願所としたことに由来する。
 表直香が無役のころ、宰領役に隋って上国したその途次、中国福州へ漂着した際に、かって八重山で介護したことのある中国人某に出会い、観音像2体を守護仏として贈られる奇縁に恵まれた。一方、夫の無事を案じていた妻真鶴が美崎御嶽や権現堂に日参しているのを知った桃林寺住持は、観音像1体を真鶴に与えた。まもなく表直は無事帰島し、観音像3体を自宅に安置し篤く信仰した。
 その後、大浜村「かやんに」に小堂を建て観音像を移したが、のち託宣があったとして新川村「ふっこんに」へ、さらに経塚のある冨崎原へと移転した。乾隆46(1784)年、6世直達らが、瓦葺きに改築し道光17(1837)年には在番知念親雲上政行が本堂を造営した。その後、明治から昭和にかけて改築や再建がくり返されているが、周辺の植生とあわせ名所となった観音堂は、海上交通安全と無病息災の祈願所として庶民の信仰は極めて篤い。
 なお、この地域で無断に現状を変更することは市条例によって禁止されています。

  昭和62年10月
  石垣市教育委員会
冨崎観音堂 石碑

お正月には島の人々が参拝に訪れます。

32.宮良長包顕彰碑

音楽家宮良長包
顕彰碑


同碑文



[表面]
音楽家宮良長包
顕彰碑

[裏面・上段]
宮良長包は 明治十六年三月現在の石垣市字新川に生まれる 明治三十五年三月八重山島高等小学校卒業 明治四十年三月沖縄県師範学校卒業 同年四月現在の登野城小学校訓導に任命され 大正四年四月沖縄県師範学校附属小学校へ転任 その後 沖西 小禄両小学校長を歴任して 大正十年四月沖縄県師範学校音楽教師に迎えられる 以来十七年間音楽教育に専念する傍 作曲活動に精進し幾多の名曲を発表する 昭和十四年六月那覇市で病死 享年五十六歳 長包は生来感受性強く音楽的天分に恵まれ 沖縄の教育音楽の基礎づくりと発展のために生涯を捧げ 多くの優れた人材を育成するとともに 当時郷土文化に対する蔑視と差別的風潮の中にあっていち早く伝統的郷土音楽の優秀性を確認してその神髄を極め 郷土の情緒と旋律を基調とした格調高い 個性豊かな宮良音楽を生みだした 彼の創作した幾多の名曲は広く大衆の中に普及浸透し 郷土への限りない愛着を人びとの魂に深く刻み込んだ
 暖かい愛情と感性豊かな教育者
 沖縄の教育音楽の先覚的指導者
 沖縄の心を発掘昇華した愛郷の芸術家
ここにその輝かしい偉業を讃え 生誕百周年を記念して顕彰碑を建てる

[裏面・下段]
建立
1983年3月18日
宮良長包生誕百周年記念事業期成会
社団法人 八重山青年会議所
舟蔵公園

この碑は、舟蔵公園、通称、児童公園内にあります。公園の向かいには竹富島がよく見えます。

33.米軍飛行士慰霊碑

米軍飛行士慰霊碑


邦文


英文

この碑は「平和祈願之碑」の隣にあります。
碑文
 太平洋戦争末期の昭和20年4月15日の朝、石垣島に来襲した米空母マカースレイトの雷撃機グラマンTBFアヴェンジャー編隊の1機が、日本海軍警備隊の地上砲火で撃墜された。 パラシュートで大浜沖合に落下した3名の飛行士は海軍兵士に逮捕され、捕虜となり、警備隊本部のあるバンナ岳麓で瀕死の暴行を受け、同日夜処刑された。 捕虜の虐待は「捕虜の待遇に関する条約」(通称「ジュネーブ条約」昭和4年)で禁止されていた。 ティボ中尉とタグル兵曹は軍刀で斬首、ロイド兵曹は多数の兵士達の銃剣による刺突で無残にも殺害された。 これは戦争がもたらした非常に悲しい事件であった。
 バーノン・ローレンス・ティボ中尉(機長,イリノイ州出身,28歳)
 ウォーレン・エイチ・ロイド兵曹(通信手,カンザス州出身,24歳)
 ロバート・タグル・ジュニア兵曹(砲手,テキサス州出身,20歳)
 人道上から日米が協力して、無念のを死遂げた米兵士の御霊を慰めるため、ここ石垣島に慰霊碑を建立する。
 碑が日米の平和、友好の発展に寄与し、かつ人間として持つべき平和を希求する心と、決して戦争があってはならないという固い誓いを後世に正しく伝え、世界の恒久平和の実現に寄与することを祈る。   平成13年8月15日
 米軍飛行士慰霊碑建立期成会

On the morning of April 15,1945,in the closing days of World War Ⅱ,a Grumman.TBF Avenger,assigned to the carrier USS Makassar Strait,was shot down off the coast of Ishigaki Island by the Imperal Japanese Navy. The three aviators parachuted in to the water near Ohama and swam to a coral reef,where they were captured by Japanese sailors. After being interrogated and tortured,they were executed during the night at the foot of Mount Banna,at the Imperial Navy Headquarters. The torture of prisoners of war was a violation of the Geneva Convention,the rules of war signed by the international community in 1923. Vernon L.Tebo and Robert Tuggle,Jr.were beheaded. Warren H,Loyd was beaten and stabbed with bayonets by numerous of sailors and soldiers.
This incident was a tragedy which took place during war.
 Lt,Verson L.Tebo, 28,a Navy pirot,of Illinois
 Aviation Radioman 1st Class Warren H.Loyd, 24.of Kansas
 Aviation Ordnanceman 1st Class Robert Tuggle,Jr., 20, of Texas
To console the spirits of the three fallen American servicemembers and honor their deaths,we jointly dedicate this monument in the hope that this memorial stone will contribute to the everlasting peace and friendship between Japan and the United States,and that this monument will serve as a cornerstone to convey to future generations our keep desire for eternalpeace in the world and our determination to renounce war.
August 15,2001
The Joint Committee of Japanese and American Citizens to Honor the Three Fallen American servicemembers During World War Ⅱ

34.唐人墓

唐人墓の碑文


唐人墓近景
石垣市唐人墓
この唐人墓には中国福建省出身者一二八人の霊が祀られている  中国人労働者(苦力)は、一六世紀以降世界各地に多数送り出されていた  一八五二年二月 厦門(モイ)で集められた四百余人の苦力(クーリー)たちは米国商船ロバート・バウン号でカリフォルニアに送られる途次 辮髪(べんぱつ)を切られたり病人を海中に投棄されるなどの暴行に堪えかねて遂に蜂起 船長等七人を打殺した  船は台湾へ向かう途中たまたま石垣島崎枝沖に座礁 三八〇人が下船した  八重山の政庁蔵元は冨崎原に仮小屋を建てて彼らを収容した  しかし米英の兵船が三回にわたり来島 砲撃を加え 武装兵らを上陸させてきびしく捜索を行った  中国人等は山中に逃亡したが銃撃 逮捕され あるいは自殺者が出るなどの惨憺たる状況となった  琉球王朝と蔵元は人道的に対応 中国人側の被害を少なくするよう極力配慮し 島民も深く同情 密かに食糧などを運び給した  しかし疫癘による病死者も続出した  死者は一人びとり石積みの墓を建立して丁重に葬られた  この間 関係国間の事件処理に対する交渉の結果、翌一八五三年九月 琉球の護送船二隻で生存者一七二人を福州に送還して終結した  中国ではこの事件が契機となって大規模な苦力貿易反対ののろしが打ち上げられた  ここ冨崎原一帯には唐人の墓と称する煉瓦状墓碑を配した墓が 戦後まで数多く点在していた   一九七〇年石垣市は異国の地に果てたこれらの不幸な人びとの霊魂を合祀慰霊するため 唐人墓建立委員会を結成 当市よりの補助 とくに中華民国政府の物心にわたる手篤いご支援 および琉球住民 在琉華僑諸賢のご芳志をもって一九七一年これを完成した
茲 に唐人墓の来歴を記すに当り 関係各面のご協力に対し 謹んで深甚なる感謝の意を表する次第である
  一九九二年三月三十一日  石垣市長   半 嶺 當 泰


(以下、中国語文:省略)
唐人墓遠景

唐人墓は新川・冨崎にあります。

中国人労働者を殺戮するために石垣島に来島した米軍艦サラトガ号は、2年後に他の3隻の軍艦と共に、浦賀の沖合いに来航しました。

35.平和祈願之碑

平和祈願之碑 碑文

人類の歴史上 いまほど世界平和が叫ばれ そしてそれが現実のものとなりつつある時代はないでしょう  それは東西の政治的な接近がもたらしたものですが 根源には交通手段 経済活動 情報網の地球的な広がりがあるのは周知のとおりであります  そして我々地球市民がこの次に乗り越えなければならない壁は異なる文化をもつ民族間の真の融和であり それには国家を越えた民間交流が重要な役割を果たすのです
今十周年を迎えた八重山青年会議所と蘇澳国際青年商会との姉妹締結は正にその第一歩であることは間違いありません
願わくはこの交流を通して両国のそして世界の恒久平和を希求し ここに平和祈願の碑を建立致します
   一九九一年八月一日
     八重山青年会議所
        理事長 宮城 隆
     蘇澳国際青年商会
        会長 陳 信光
平和祈願之碑遠景

この碑は「唐人墓」の隣(南東側)にあります。

36.平和祈念碑

平和記念碑文

人間が人間を差別し 
憎悪と殺戮がくりかえされることのない
人類社会の平和を希い
この地に眠る異国の
人々の霊に敬虔な祈りを捧げる
一九七一年九月二十八日
琉球政府
行政主席 屋良朝苗
平和記念碑遠景

この碑は唐人墓のすぐ隣にあります。

37.World Peace Flame

World Peace Flameの碑
World Peace Flame
石垣島 炎の祭典
  2000年7月15日
Life Foundation (英国)
Dr Mansuku Patel
この碑は新栄公園内にあります。
2000年のサミット開催に合わせ「炎の祭典」が開催されたことを記念するものです。

38.喜舎場永珣 顕彰碑

喜舎場永珣 顕彰碑全景


八重山研究の父
喜舎場永珣 顕彰碑

[顕彰碑 碑文]
 八重山研究の父
 喜舎場永珣
 顕彰碑

[同説明碑文]
 喜舎場永珣は明治十八年(一八八五)石垣市登野城で生まれ 昭和四十七年(一九七二)八十八歳の天寿を全うした
 明治三十八年沖縄県師範学校簡易科を卒業 教職に在ること二十七年 その間伊波普猷 柳田國男との出会いがあり郷土研究への強い影響をうけた
 昭和七年四十八歳で教職を退いた後は郷土の歴史 民俗 文化等の調査研究 資料収集 記録等に専心努力し幾多の著述を世に送り その中の「八重山古謡」は日本民俗学研究者最高の栄誉とされる柳田賞に輝いた
 かくてその先駆的業績は戦後沖縄学の形成に寄与 広く南島研究面に先導的役割を果たし また後進の研究や郷土史の教育 さらに八重山の伝統文化芸能の育成発展に測り難い影響を与えた
 彼は豪放磊落 記憶力抜群で 是非曲直にきびしい性格であった
 また郷土八重山の自然や文化をこよなく愛し「汝のたつ所を深く掘れ甘き泉あり」を座右の銘として「甘泉」と号し郷土の発展を期すために郷土研究の必要性を唱導
 自らその実践開拓に生涯を捧げ「八重山研究の父」と仰がれた
 ここに生誕百年に当たり 限りないその郷土愛と 偉大な研究業績を讃えるため 有志の浄財をもってこの碑を建立した
   建立 昭和六十年(一九八五)十一月三十日
   喜舎場永珣生誕百年記念事業期成会
説明碑文

同拡大

この碑は唐人墓に隣接して建てられています。
ちなみに、日本コロムビアの要請を受けて宮良長包らに八重山の名歌を推薦したり 「安里屋ユンタ」 を全国に知らしめるきっかけを作った事でも有名。

翁は、石垣市名誉市民です。

39.世界平和の鐘

「世界平和の鐘」の碑文
世界平和の鐘
 昭和29年(1954年)に戦争の悲惨さ、核廃絶、平和の尊さを訴えて、65カ国のコインやメダルなどで鋳造された「世界平和の鐘」は、日本から米国ニューヨークの国連本部に寄贈されました。
 世界の人々が「平和」を祈り、「平和」を考える日になることを願い、毎年国連総会開会の日-「国際平和の日」に全世界に向けて国連事務総長が鐘打します。
 世界の恒久平和は、美しい自然・かおり高い文化を誇る日本最南端の都市に住む私たち石垣市民のすべての願いです。
     昭和63年12月10日設置
     「世界平和の鐘の会」沖縄県支部
世界平和の鐘

日本では、「世界平和の鐘」の第1号鐘が日本最北端の稚内市に設置され、第2号鐘が、日本最南端の石垣市(新栄公園)に設置されています。

40.ほほえみの鐘

ほほえみの鐘の碑文

ほほえみの鐘
「世界平和の鐘」が設置された昭和63年(1985年)に、「ほほえみの鐘」も併せて設置されました。
 この鐘は「非核平和都市宣言」をした石垣市民の善意によって設置されたもので、未来を担う子ども達の幸せとすこやかな成長・世界の永遠の平和の祈りが込められています。
 私たち石垣市民は、市民ぐるみの子育てと平和を求める運動を進め、市民一人ひとりのたゆまぬ努力を誓います。
昭和63年12月10日設置
「世界平和の鐘の会」沖縄県支部
ほほえみの鐘

ほほえみの鐘は、新栄公園内にあります。

41.戦争放棄の碑

戦争放棄の碑

同 側面
[表面]
戦争の放棄

日本国憲法
第2章 戦争の放棄
第九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

[裏面]
 憲法九条は、日本と世界の平和及び安全の道標であることを確信している。しかし、内外の諸情勢にはいぜん厳しいものがある。よって私たちは迷うことなく「憲法九条の碑」をここに設置し、改めて内外にその意義を闡明(せんめい)にする。
          2004年11月3日
     「憲法九条の碑」設置石垣市民の会
       会   長  森田孫榮
       デザイン  湖平正道
         書    豊平峰雲
戦争放棄の碑の
裏面


この碑は、新栄公園内にあります。
裏面には鳩が彫られています。

42.いしがきアピールモニュメント

いしがき
アピールモニュメント碑文

私たちのまち石垣市はエメラルドの海、コバルトブルーの空に囲まれ、年平均気温24.2度、年平均湿度が78%で温暖多湿な亜熱帯海洋性気候です。日本列島の最南端にあって、アジアのみならず広く太平洋に開かれた枢要の位置にあります。この小さな島がアジアの十字路として、地理的優位性とともに、様々な人、物、情報、文化の出会いを求めながら、国際拠点都市を目指し、国際社会に対応する魅力あふれるまちづくりを進めています。 我々青年会議所は、この地を訪れる方々に「出会えば皆兄弟」の精神でお迎えし、21世紀を担う私たちコア世代は新たな「ゆいまーる」(たすけあい)の心を構築し、地域とともに協働運動で「明るい豊かな社会」を目指しながら、この八重山諸島を国内外へアピール致します。
                              1998年3月25日 社団法人 八重山青年会議所
除幕者
石垣市長 大濱 長照       (社)日本青年会議所      1998年度  会 頭 新田 八朗
(社)八重山青年会議所      (社)日本青年会議所 沖縄地区協議会  会 長 仲宗根 康人
1997年度 理事長 新 賢次   (社)日本青年会議所 沖縄ブロック協議会 会 長 上原睦人
1998年度 理事長 大城 一能 アピールモニュメント建設実行委員会   委員長 西玉得 敦
このモニュメントは、多くの石垣市民のご協力を得て建立いたしました。
モニュメント全景

このモニュメントは、新栄公園内にあります。

43.石垣市核廃絶平和都市宣言

石垣市核廃絶平和
都市宣言の碑

[表面]
石垣市核廃絶平和都市宣言
 私たち石垣市民は、第二次世界大戦の広島と長崎で原爆の恐ろしさ、悲惨さ、残酷さを知りました。
 そして、沖縄戦や八重山戦争マラリアでは何十万もの尊い命が奪われたことも決して忘れてはいません。
 私たち石垣市民は、地球上からあらゆる戦争やテロがなくなることを願い、全ての核兵器の廃絶と世界の恒久平和を希求します。
 また、人類の存在を脅かす核兵器の開発につながる一切の核実験の禁止を切望し、同時に原発に頼らない社会を実現します。
 私たち石垣市民は、次の世代も、またその次の世代の子どもたちも安心して住み慣れた土地で幸せに暮せるよう核兵器廃絶を強く訴え、世界一平和で幸せなまちを目指す石垣市から「核廃絶平和都市」を宣言します。
      平成二十三年(二〇一一年)十二月二十七日制定
この碑は、新栄公園内にあります。
[裏面]
Ishigaki Peace City Declaration calling for the Abolition of Nuclear Weapons

We, the citizens of Ishigaki , have learned the horror, misery, and cruelty of the atomic bombing through Hiroshima and Nagasaki during World War Ⅱ.
Moreover, we will always remember that hundreds of thousands of precious lives were lost in the Battle of Okinawa and due to the malaria in the Yaeyama War.
We, the citizens of Ishigaki, pray that all wars and terrorism will disappear from the Earth,
and we long for the total abolition of nuclear weapons and the realization of lasting world peace.
We also aspire to see a global ban on nuclear tests that may lead to the development of nuclear weapons, the greatest threat to mankind, and strive to realize a society independent of nuclear energy.
We, the citizens of Ishigaki, strongly appeal for the abolition of nuclear weapons to ensure that children and future generations can live in their hometowns feeling safe. Ishigaki City aims to become the world's happiest city and hereby declares it to be a "Peace City calling for the Abolition" of Nuclear Weapons"
 Establishment : December 27, 2011

44.非核平和宣言都市の碑

非核平和宣言都市の碑

非核平和宣言文
[表面]
石垣市
非核平和宣言都市
The City Which Declares Nonnuclear Peace

[裏面]
 人類の生存と平和をおびやかす核軍備を人類社会から追放、廃絶させ、真の恒久平和を確立することは、全世界の人々がひとしく希求するところである。
 しかしながら、通常兵器はもとより、核兵器による軍備拡大競争、並びに世界各地における局地的紛争は依然として続き、世界情勢は一段と厳しく憂慮すべき事態にある。
 このことは、我々がかつて経験した太平洋戦争の悲劇を忘却した暴挙であり、国際協調と平和を理念とするわが国憲法の精神、並びに地方自治の本旨からして看過できない。
 従って、平和で豊かな自然文化都市を目ざす石垣市は、わが国憲法の崇高な理念に基づき、非核三原則の完全実施を求めるとともに、平和を愛する全世界の人々と相携えて、すべての核兵器の廃絶を強く訴え、ここに石垣市が永久に非核平和都市建設に邁進せんことを高らかに宣言する。
  1984・3・29 宣言
裏面より碑全景

この碑は、新栄公園内にあります。

45.宮良當壯の碑

宮良當壯の碑(表面)

同 (裏面)

 宮良當壯は、明治二六年(一八九三)一二月一日現在の石垣市字大川で生まれ 昭和三九年(一九六四)三月一日七〇歳で天寿を全うした 八重山島高等小学校を卒業し明治四二年七月 一七歳で出郷 那覇で人力車の後押しなどをして旅費を工面し上阪 帝国吃後矯正会に入って生来の吃音矯正に努め かたわら音声学を学ぶ その後上京し新聞配達や納豆売りなどをして明治四四年八月郁文館中学校二年に編入学し 大正八年國学院大学に進学 前田太郎 金田一京助 折口信夫に師事し方言学や民俗学を学んだ 卒業後は柳田國男の推挙で宮内省図書寮に勤務 芳賀矢一 上田萬年 新村出 市河三喜らの推薦によって大正一四年から帝国学士院より研究費補助を受け 昭和二一年まで国際音声記号を用いて前人未踏の全国方言調査研究に従事した 昭和一八年には図書寮編修官を辞し 日本方言研究所を創設して所長となり 方言の調査研究に専念 その研究業績が認められ 昭和二八年一二月「琉球諸島言語の国語学的研究」で 母校の國学院大学から文学博士の学位を受けた 昭和二九年武蔵野女子学院短期大学国文化主任教授となり 後進の指導育成につとめた
 當壯は、生涯を方言研究一筋に打ち込み 苦学力行の末 遂に「採訪南島語彙稿」「日本方言彙編」などの全集二二巻を著し 日本方言研究に先駆的な業績をのこした
 ここに 生誕百年に当たり 博士の不朽の偉業を讃えるため 内外の有志の浄財をもってこの碑を建立した
  平成五年(一九九三)一二月一日
  宮良當壯博士生誕百年記念事業期成会
碑の全景

碑の側面

この碑は、新栄公園内にあります。

46.石垣市非核平和都市宣言

石垣市非核平和都市
宣言の碑
[表面]
石垣市非核平和都市宣言
 人類の生存と平和をおびやかす核軍備を人類社会から追放、廃絶させ、真の恒久平和を確立することは、全世界の人々がひとしく希求するところである。
 しかしながら、通常兵器はもとより、核兵器による軍備拡大競争、並びに世界各地における局地的紛争は依然として続き、世界情勢は一段と厳しく憂慮すべき事態にある。
 このことは、我々がかつて経験した太平洋戦争の悲劇を忘却した暴挙であり、国際協調と平和を理念とするわが国憲法の精神、並びに地方自治の本旨からして看過できない。
 従って、平和で豊かな自然文化都市をめざす石垣市は、わが国憲法の崇高な理念に基づき、非核三原則の完全実施を求めるとともに、平和を愛する全世界の人々と相携えて、すべての核兵器の廃絶を強く訴え、ここに石垣市が永久に非核平和都市建設に邁進せんことを高らかに宣言する。
昭和五十九年(一九八四年)三月二十九日 制定
この碑は、新栄公園内にあります。
[裏面]
Ishigaki Nuclear-Free Peace City Declaration
A common desire of people around the world is to expel and abolish nuclear weapons, which threaten the survival of mankind, from the face of the earth and establish lasting peace.
However, the arms race, including nuclear and conventional arms, and local conflicts continue, and a tougher and more alarming world situation lies ahead.
Such a world situation resulted from the fact that the tragedy of the Pacific War we once experienced has been forgotten, a fact that is almost a serious act of violence to humanity and that should not be overlooked in light of the spirit of the Constitution of Japan, the basic principle of which lies in international cooperation and peace, and the of local governments.
Therefore, Ishigaki City which aims to become to become a peaceful, affluent cultural city blessed with rich nature, calls for the full implementation of the three non-nuclear principles based on the noble principles of the Japanese constitution; therefore, we appeal, together with people in the world who love peace, for the abolition of all nuclear weapons and hereby declare that Ishigaki City will make an eternal effort toward the realization of a nuclear-free peace city.
Establishment : March 29, 1984

47.雪見灯篭の説明碑

雪見灯篭の説明碑

雪見灯篭
 この雪見灯篭は、石垣
市と岡崎市が昭和四十
四年二月十九日親善都
市提携を宣言、以来、
両市の親善交流が続き
本年は提携二十周年に
あたり、これを記念し
て両市の永遠の友情を
願い贈るものである。
平成元年二月吉日
岡崎市長 中根鎮夫

親善都市友好記念
岡崎市制70周年記念
贈 岡崎石工業株式会社
遠景

この碑は新栄公園の西側にある公園内にあります。

48.徳川家康六十歳像

徳川家康六十歳像 表側
【表面】
徳川家康六十歳像
親善都市提携
40周年記念
岡崎市
昭和21年11月7日

【裏面】
寄贈 2009.05
岡崎南ライオンズクラブ
岡崎南ロータリークラブ
徳川家康六十歳像 裏側

この碑は新栄公園の西側にある公園内にあります。

49.仲よしの像

仲よしの像 表面
【表面】
仲よしの像
親善都市
石垣市 岡崎市

【裏面】
贈 親善都市
岡崎市長 中根鎮夫
昭和62年5月吉日
仲よしの像 裏面

この碑は新栄公園の西側にある公園内にあります。

50.親善之碑

親善之碑
【表面】
親善之碑

 岡崎市長 大田光二

【裏面】
昭和四十三年八月
奥殿学区第一訪問団
 深津 釥一郎
碑の裏面

この碑は新栄公園の西側にある公園内にあります。

51.新八重山音頭の碑

新八重山音頭の碑 表面
【表面】
新八重山音頭

 作詞  翁長千代
 補作詞 森田孫栄
 作曲  黒島健

一、あかい梯梧が ぱっと咲き
   そらに映えれば 若夏きたよ
  燃ゆる炎に あこがれ托し
   老いも若きも 輪になろう
  八重山 八重山の
   心を結ぶ 心を結ぶ
二、あおい海原 かがやいて
   揺れる波間に 七色珊瑚
  潮のしぶきを いっぱいうけて
   海の公園 島めぐり
  八重山 八重山の
   海すみわたる 海すみわたる
三、キビやパインを 積み込んで
   汗をぬぐえば 大本岳のすそ野
  ダムがとどろき 水巻きおとし
   牧場のサイロに 茜さす
  八重山 八重山の
   ゆたかさ拓く ゆたかさ拓く
四、月のまひるま うつくしや
   並木通りが すずしく濡れる
  ビルの谷間に ユンタも流れ
   そろい絣で 音頭とる
  八重山 八重山の
   なさけのみやび なさけのみやび
寄贈者
 石垣市大川一三五番地
 翁長 常勇


【裏面】
二千一年十月吉日建立
新八重山音頭の碑 裏面

この碑は新栄公園内にあります。

52.(旧)石垣空港の碑

石垣空港の碑
石垣空港
ISHIGAKI AIRPORT


この碑は旧石垣空港への進入道路沿いに設置されていました。
碑の設置場所(左側)

53.真栄里節の碑

真栄里節歌碑
この歌は明治の中期 最後の真栄里首里大屋子職松茂氏宮良當意翁が作詞作曲され 真栄里村を象徴する民謡として 村民に愛唱されてきた
 村民の精神的支柱として 永く後世に歌い継がれることを願って 茲にこの歌碑を建立した
 平成五年十月
  真栄里節歌碑
   建立実行委員会
真栄里節歌碑

この碑は真栄里公民館のそばにあります。

54.真栄里アーンヌカー跡

真栄里アーンヌカー跡の碑
   真栄里アーンヌカー跡
 ここに「アーンヌカー」と呼ばれる真栄里村のウブカー(共同井戸)があった
 この井戸は古文書によると首里王府番所(オーセ)直営製糖家(シートーヤ)の水源としても利用されたという
 太平洋戦争中「軍の防空壕」として使用され戦後埋められた
 真栄里地域にはいくつかの井戸があったが水道の普及などによってそのほとんどが消失している
 公民館改築に伴って真栄里節の碑を移設するとともに井戸をイメージし水落しを設けた
 真栄里節・「アーンヌカー」を真栄里地域の文化的象徴として後世に残す
 二〇一〇年五月一五日
  真栄里公民館建設事業期成会
真栄里節の碑(中央)および
アーンヌカー跡の碑(左)

この碑は真栄里公民館のそばにあります。

55.オウシマダニ撲滅之碑

オウシマダニ撲滅之碑

オウシマダニ撲滅之碑
碑文


[表面]
八重山群島
オウシマダニ撲滅之碑
初代沖縄開発庁長官 山中貞則書


[裏面]

 碑文

 八重山群島では 古くから牧畜を盛んに営んでいたが オウシマダニ
が媒介する法定伝染病であるピロプラズマ病の猛威によって莫大な損耗

を被ってきた 更には 郡 県外への牛の移動制限を余儀なくされ 地
域畜産振興の大きな阻害要因となっていた
 かかる実情に鑑み 昭和四六年度(一九七一)から国庫補助による沖
縄牧野ダニ対策として駆除 清浄化撲滅 清浄維持事業を継続し実施
してきた
 我々は 「一頭もれなく」を合い言葉に 打って一丸となった生産農
家の努力により二八年間に亘る一三億七千万円余の巨額と延べ三〇六万
頭に及ぶ薬浴 プアオン法によつてオウシマダニとピロプラズマ病を完
全に撲滅し 牛の移動制限が解除された
 ここに この世界的な先人達のオウシマダニ撲滅に挑んだ功績を子々
孫々に伝え 併せて八重山群島の畜産業の飛躍的発展を祈念し この碑
を建立する
 平成一二年二月十日
  沖縄県知事
    稲嶺 恵一


 沖縄県では復帰後、三大撲滅事業が進められました。マラリア、ミバエ、最後がオウシマダニでした。オウシマダニは一匹で3ミリリットルくらいの牛の血を吸い、血液のたん白質を 摂取することで成長します。子牛は貧血になったり栄養失調になり、例えば黒島では、子牛10頭のうち2頭は死亡、2頭は発育不良で商品価値がなくなり、まともに育つのは6頭程度と言われていました。オウシマダニは法定伝染病のバベシア原虫を病原体とするピロプラズマ病を伝染し、2週間の潜伏期を経て牛の赤血球を破壊し、感染牛は激しい貧血、黄疸症状を起こし死亡します。
 オウシマダニの駆除は 草地のダニと牛に付着したダニの両面作戦で行なわれました。草地は薬剤散布、牛体は牧場などに薬浴施設を設け、駆除が進められました。
八重山家畜市場

オウシマダニ撲滅之碑は、八重山家畜市場入口の左手にあります。

56.開拓之碑(於茂登)

開拓之碑
【表面】
開拓之碑
【裏面】
開拓25周年記念事業として
昭和57年10月吉日建立する

先発者
昭和三十二年五月十九日入地
 …以下(入植者名)略・・・

この開拓之碑は、於茂登岳の麓、登山道入口前の広場(公園内)にあります。
於茂登岳は標高526m、石垣島の最高峰だけでなく沖縄県の最高峰でもあります。
碑の裏面

57.高橋洋介氏顕彰碑

高橋洋介氏顕彰碑
[上段]

岩手 絆 石垣
高橋洋介氏の功績を讃える
平成25年1月26日
碑の裏面から
(右側が該当)

[同 下段]
 岩手と石垣島の交流は今年20年の節目を迎えました。
 交流のきっかけとなった平成5年、岩手が大冷害に襲われた際に石垣島において種籾増殖事業の指揮を執ったのが当時、岩手県農政部長の高橋洋介さんでした。盛岡農業改良普及所の菅原那典上席普及員を石垣島に派遣し事業を成功に導きました。新品種は「かけはし」「ゆめさんさ」と名付けられ、岩手と石垣の交流の象徴となりました。
 岩手・沖縄かけはし交流は、今や沖縄県の農業技術向上をはじめ石垣島マラソンや高橋さんの古里の北上マラソン、岩手県立盛岡第四高校と沖縄県立八重山高校の姉妹校提携等、幅広い民間交流に結実しています。
 平成23年3月11日の東日本大震災は三陸海岸に未曽有の被害をもたらしました。沖縄・石垣島の方々には物心両面にわたって多大な支援を頂きました。高橋さんは感謝の意を示しながら同年8月9日に他界しました。
 岩手と石垣島の交流発展に尽力した高橋洋介さんの功績をしのび、ここに顕彰碑を建立します。
 平成25年1月26日
 岩手・石垣 高橋洋介顕彰碑建立期成会

58.種籾緊急増殖事業記念碑

種籾緊急増殖事業記念碑
[上段]

岩手県出納品種『かけはし』
種籾緊急増殖事業記念碑
菅原那典君を讃えて
平成21年1月24日 建立
碑の表面から
(右側が該当)

[同 下段]
 平成5年、岩手県の水稲作況指数は僅か『30』という未曽有の大冷害に襲われました。このため、岩手では翌年度の種籾の確保が困難になりました。
 そこで、当時開発中のオリジナル品種『かけはし』を石垣島で栽培し、収穫したお米を種籾として使う緊急増殖事業が計画されたのです。幸い、この事業は、石垣島の農家の皆さんをはじめ、沖縄県や石垣市などの関係する方々の暖かいご協力により、見事に成功いたしました。
 その間現地に常駐し、『かけはし』の栽培指導に当ったのが菅原邦典君でした。事業の成功の陰には、菅原夫妻の遠隔の地での並大抵でない苦労があったのです。その努力が現在もかけはし交流となって、岩手と沖縄の交流に実を結んでいます。
 私達は15年を経た今、両県の交流が末永く続くことを願い、さらに平成20年6月に他界した菅原君の功績を後世に伝えるため、この記念碑を建立し、かけはし交流の証とします。
 岩手・沖縄かけはし交流会
 会長 高橋 洋介     石垣支部長 大濱長照

「かけはし」の種籾増殖事業の詳細については、以下を参照して下さい。
いわて純情米需要拡大推進協議会サイトの「夢のかけはし物語」
 この碑は次項の碑と一体化され、真栄里運動公園の東側に設置されています。
 元はJAライスセンターにありましたが、その後現在地に移設されました。

59.感謝の碑

感謝の碑

同碑文

碑遠景


【表面・上部】
感謝の碑

【表面・下部】
碑文

 多良間島は一七七一年(明和八年)に大
津波と二度にわたる暴風によって大きな
被害を受け飢餓状況に陥り多数の
餓死者を出していた。
 そのような状況の中で二百人余の住民は
食糧を求めて宮古島に渡る途中時化に遭い
石垣島に漂着した。またくり舟で石垣島に渡り
救助を求めたりした。
 当時石垣島も被害は甚大で食糧事情も
厳しいものがあったと言われている。
 それでも石垣島の皆さんは人命尊重の
思いから多くの人々を手厚く保護された上
島に残っている住民への食糧支援まで
して頂いた。
 こうした言葉に言い尽くせないご厚情を
受け多良間島の住民は生きる力と勇気を
得てその後の歩みを切り拓くことができた。
 そこで多良間村制施行百周年の佳節に
碑を建立し感謝の意を表すものである。
 二〇一四年(平成二十六年)三月吉日
 多良間村長 伊良皆光夫
 多良間村民一同
 八重山在多良間郷友会

【裏面プレート】
石材寄贈
 山川朝源
揮毫
 羽北正弘
刻字
 崎山寛樹
裏面

裏面プレート拡大

この碑は石垣市中央運動公園・屋内練習場の南側にあります。

60.平得アラスク村遺跡

平得アラスク村遺跡の
説明板

平得アラスク村遺跡
県指定史跡
昭和56年8月13日
 平得部落の北東1.5Kmの琉球石灰岩地帯に形成された八重山編年第Ⅲ期(15・16世紀)に相当する遺跡で 石囲いの遺構内に多量の中国製陶磁器 八重山式土器等が散見され かたわらには降り井戸が残っている。
 伝承によると 本遺跡はアラスク村と称されていたようで 今日みる平得部落の前身だといわれている 平得部落は ペーギナー村(熱帯農業研究センター北側の平喜名遺跡)から当遺跡へ さらに南側のウィスズ村(ウィヌスズ遺跡) ナカンドゥ村(仲本村遺跡群)を経て 現在の平得に定着されたと伝えられており 村落変遷を知るうえで貴重な資料を残している
 当遺跡は本来 土塊を含む石垣等を有し かなりの規模を誇っていたが 近隣の圃場整備により 中心部のみが残っている
  昭和61年3月
  石垣市教育委員会
  沖縄県教育委員会


(注) 平得アラスク村遺跡は八重山家畜市場の西に位置しており、遺跡への道は、細い農道となっています。 本説明板の前には車が止められる程度のスペースはありますが、 広くはありません。
平得アラスク村遺跡
周辺光景


平得アラスク村遺跡の北側には牛舎等があり、周辺には私有地も多いので近隣の方々に迷惑のかからないように注意して下さい。

61.月夜浜節

月夜浜節の碑(表面)
【表面】
月夜濱節 (現代訳)
月夜濱だぎに
岸ぬ浦ぬ木綿
木綿花 作くてぃ
木綿かしかきら
くりかえし 返し
指はぢき 見あぎりば
筋むつぃぬ 美らさ
ゆみ美らさあむぬ
吹かば飛ぶ手巾
しゅて待ちゅら
月夜の浜のように真っ白い
岸の浦の木綿畑
木綿の花を作って
木綿糸を作りましょう
 繰り返し 返し
指で解いてみたら
糸筋も美しく
ゆみ糸もよく揃って美しい
吹けば飛んでしまうような 最上品の手巾を
織って 里前(彼氏)が来るのを待ちましょう

【参考】
(1)  「岸ぬ浦」とは、石垣市登野城から伊原間方向へ約24km先の金武岳の南方の肥沃な土地で、別名、「南の浦(ハイノウラ)」とも言います。海岸に断崖があるので、「岸」と言われており、これに続いている土地であることから「岸ぬ浦(岸の浦)」と称されていたようです。
(2)  木綿からは木綿布を作ります。人頭税時代には、各部落ごとに一箇所で共同栽培していて、平得村は、岸の浦で綿花栽培を共同で行っていたようです。綿花の共同栽培は、婦女子に課せられた人頭税である「御用布」を織る原料を得るための重要な仕事でした。
(3)  「指はつぃき」は、綿花を採って来て乾燥させ、木製の大弓の絃を棒ではじいて解し、つむぐことを言います。
(4)  「吹かば飛ぶ手巾(てぃさじ)」は、吹いたら飛ぶくらいの極細上の手巾のことです。ここでは恋人に捧げるために心をこめて織り、彼を待つ思いが想像できます。この歌は「究極の恋の唄」といってもよいでしょう。

【裏面】

 平得村新本家の祖先は篤農の士で、田
畑農耕の他に遠く大野岳の麓、南風の浦
(岸の浦)の地を村人たちと開拓し、自らも
広く木綿を栽培していた、
 満月の夜、一面に満開し真白に輝い
ている綿花の情景が、あたかも月夜の砂
浜の如くであることを、月夜浜ユンタとして
詠み歌った、このユンタは平得村内に愛唱
されていた、
 その頃(宝暦八年、一七五八)平得村与人で
あった黒島当応は、月夜浜ユンタをもと
に月夜浜節を採譜し工工四に載せて
いる、
 以来、八重山の古典音楽として広く唄い
つがれている、 此に新本家祖先の遺徳
を偲ぶとともに、平得の弥栄を祈念し
て歌碑を建立する、

 平成十八年(二〇〇六)十一月二十三日
         月夜浜節歌碑建立期成会
              揮壱 田本ひろえ
              篆刻 崎山寛樹
(裏面)

 この歌碑は平得大阿母御嶽東側のお祭り広場にあります。2006年11月23日に建立されました。

 「月夜浜節」は平得の新本家の祖先が、田畑耕作の傍ら、遠く離れた大野岳(伊野田集落の北側)の麓を開拓して綿を栽培し、その真っ白な綿の花が満開した情景を見て、「満月の夜の浜辺に似ている」と胸を打たれ「月夜浜ユンタ」に詠み歌いました。
 1758年、平得村与人だった黒島当応が「月夜浜ユンタ」をもとに改作改曲し、工工四に載せたそうです。世間からは、この新「月夜浜」を歌う様になり、新本家のユンタは歌われなくなったそうです。

62.パイナーカー

パイナーカーの
説明板

石垣市指定文化財/史跡
City Designated Cultural Property Historical Site
パイナーカー
Painaka/Paina 井
昭和55(1980)年10月31日指定
October 31, 1980 designated

 この井戸は、長さ約20m、40段の石段があるウリカー(降り井戸)である。ウリカーとは直接水面まで降りて水をくむ井戸のことで、琉球石灰岩の岩盤を削って作られている。
 平得村の伝承によると、年代は明らかではないが、井戸のある場所付近がナカントゥと呼ばれていた頃、ウーリヤー(宇里家)に武勇に優れた7兄弟がいて、昼間は彼らが井戸を掘り、夜は神が掘って、この井戸が完成したといわれている。
 平得村の共同井戸として、一般家庭へ水道が普及されるまで大切に利用された。また、井戸の周辺からは多くの鉄滓や土器が見つかっており、パイナーカー遺跡としても知られる。
 なお、この地域において許可を得ることなく現状を変更し、または保存に影響を及ぼす行為をすることは石垣市文化財保護条例で禁じられています。

 Painaka is a descending well (Urika) that was made by digging through a base rock of Ryukyu limestone, and has a depth of 20 meters and a 40 step stone stairway. According to the oral tradition of Hirae, this well was dug by the seven Uriya brothers during the day and by a God at night. Painaka is a public well of the Hirae district, and it was carefully used before tap water became prevalent.
  平成26(2014)年3月 石垣市教育委員会
               文化財課 83-7269
パイナーカー

 パイナーカーは平得の沖縄県警察安全運転学校八重山分校の南西側(国道370号線南側)にあります。

63.暁之塔

暁之塔 碑文

暁之塔
横井忠男謹書

第二十八師団第三野戦病院跡

銘記
第二次世界大戦中昭和十九年十月我が第二十八
師団第三野戦病院々長陸軍々医大尉横井忠男
指揮石垣国民学校に病院業務開設間もなく八重山
高女並に八重山農業学校生徒を始め八重山在住の老若男
女数十名を臨時召集内外共筆舌に盡し難き恊力を得
て業務続行中戦況は昼夜を分たぬ空爆艦砲射撃の苛
烈を極め上旨に依り一部同校に残り主力を此の地開南部
落に一部を於茂登山腹に分散し事実上三ケ所業務の止む
なきに至り本土との航行通信は遮断され糧秣は愈々
無く伝染病と栄養失調を克服しつつ在島各部隊の
傷病将兵を収容看護の任に当る間敵弾に倒れ又
己の疾病もかえりみずついに不帰の人となりし
霊並びに軍民をとはず八重山の地に於て戦禍
に倒れし諸霊を合祀せる塔にして当病院生
存者の会(石垣会)有志並に在島有志各位
の浄財と多大なる奉仕によって建立し祖
国永遠の平和の礎と成し諸霊の尊き功
績をたたえ特に戦中倒れし我が病院勤務
の将兵準看護婦をここに記す
 戦没者(イロハ順)
  
・・・【以下略】・・・
暁之塔 遠景

この碑は、市街地から県道87号線を北上し、県道211号線と交差する所(開南入口)の西側にあります。

64.ミバエ根絶之碑

ミバエ根絶之碑

八重山群島
ミバエ根絶之碑
衆議院議員 中山貞則書


この碑は、農作物に大きな被害を与える害虫のウリミバエ・ミカンコミバエを根絶したことを記念したものです。県道87号線沿いの平得の開南ヘリポートのそばにあり、平成7年(1995)2月21日に除幕式が行なわれました。
駆除は、ウリミバエは「雄除去法」によって、ミカンコミバエは「不妊虫放飼法」によって根絶されました。現在でも
、東南アジア等の発生地域からの侵入の可能性があることから「不妊虫放飼法」による再侵入防止防除や、警戒用の誘引トラップによるモニタリングが続けられています。
今日、ゴーヤなどの沖縄県産野菜が内地で食べられるのも、ミバエの根絶がなされたことによるものです。
ミバエ誘引トラップ

この写真のトラップは、県農林水産部が西表島に設置したものです。

65.大鷲像

大鷲像(表面)

同(裏面)
【表面】
躍進

【裏面】
綾翅ば生らしようり
びる翅ば産だしようり
正月ぬすとむで
元旦ぬ朝ばな
東かい飛びつけ
てだばかめ舞ひつけ
綾なす羽の鷲の子を 産み
美しく艶やかな羽の鷲の子を 孵し
正月の 早朝に
元日の 朝まだき(早朝)に
東のほうへ 飛んで行きなさい
太陽を戴いて 舞って行きなさい

 これは八重山民謡の代表的曲として有名な「鷲の鳥節(ばすぃぬとぅるぃぶし)」で、正月やあらたまった席ではじめに歌われる祝宴歌です。鷲は「カンムリワシ」のことで、元日の朝に上がり始めた太陽に向かって飛び立とうとする若い鷲の姿を歌ったものです。

【側面1】
石垣港建設諸工事の竣工を記
念してこの像を建てる
一九六七年三月 石垣市
大鷲像寄贈 石垣港竣工記念大鷲像建立委員会
大鷲像彫刻 日展評議員  圓鍔 勝三
大鷲像鋳造           高原四郎
題    字           大浜信泉
工    事  合資会社   国場組

【側面2】
省略
 
同(側面1)

同(側面2)

 この像は石垣港離島ターミナル前の公園、通称「大鷲の像公園」内にあります。

66.石垣市民憲章

石垣市民憲章の碑

石垣市民憲章
 石垣市民憲章 (昭和52年10月22日制定)

 私たちは、黒潮と太陽にはぐくまれ、
詩の国、うたの国 郷土石垣市に誇りを
持ち、みんなで明るい豊かな住みよい町
をつくるために、この憲章を定めます。
一. 私たちは、互いに敬愛し、社会のきま
  りを守り「平和な町」「親切な町」づくり
  にはげみます。
一.私たちは、対話を深め、スポーツを盛
 んにし「教育の町」「健康の町」づくりに
 はげみます。
一.私たちは、美しい自然と郷土文化を守
 り育て「文化の町」「観光の町」づくりに
 はげみます。
一.私たちは、力をあわせて働き、黒潮と
 太陽の恵みにこたえ「産業の町」「美しい
 町」づくりにはげみます。
石垣市役所

この碑は玄関手前、正面に向って左手にあります。

67.大鷲の像公園の由来

大鷲の像公園の由来
の説明看板


 (通称)大鷲の像公園の由来
八重山を代表する民謡「鷲の鳥節」は、
大きなアコウ木の枝に巣つくりした
カンムリワシが卵から綾羽根をかえし
正月の朝早く東の太陽を目指して
飛び立つという雄大な叙情詩で
祝宴で最初に歌われるめでたい歌である。
一九六七年(昭和四二)、美崎町埋立。
石垣港請工事の完成を祝い、石垣市の
躍進を念願してこの公園を建設した。
大鷲の像

「大鷲の像公園」は南の美ら花ホテルミヤヒラの前にあります。

68.蘇澳鎮 石垣市 友好親善之碑

友好親善之碑
【上側・碑文】
蘇澳鎮 石垣市 友好親善之碑

【下側・碑文】
蘇澳鎮石垣市姉妹都市提携10周年記念 友好親善之碑
蘇澳鎮と石垣市は、1995年9月26日に恒久なる友好を樹立するため姉妹都市盟約を交わし、以降、教育・文化・産業・観光などの幅広い交流を通じて友好関係を築き上げてきた。相互の交流は、有形無形の財産として様々な分野で地域活性化に大きな成果をもたらし、これらに携わってきたすべての人々に心から感謝の意を表明する。我々は、この姉妹都市提携10周年を機に、両市民を挙げてさらなる親善の促進と友情を深め、友好を礎として、より一層の友好親善の絆を深めていく決意を新たにする。ここに両市の友好と繁栄に貢献することを希求し、友好親善の証として、この碑を建立する。
 2005年6月9日
 蘇澳鎮長 李 坤山  石垣市長 大濱長照
石垣市役所

この碑は玄関手前、正面に向って左手にあります。

69.宮良長包記念像

宮良長包記念像の碑

宮良長包
 記念像


 宮良長包は1883年字新川で生まれ、1907年沖縄県師
範学校を卒業した。現登野城小学校に着任し、音楽教育
を開始した。1995年沖縄師範付属小学校へ転任、のち沖
西・小禄両小学校長を歴任して1921年沖縄師範に迎えら
れた。以来、精力的な作曲活動を展開、当時国家主義偏
重と郷土文化蔑視のさなか敢然と沖縄音楽の良さを主張
かたわら『楽即童心』を力説しつつ珠玉の名曲をつぎつぎ
と発表した。1939年56歳で没。その不朽の偉業と遺徳を
称え、ここに記念像を建立する。
2003年12月28日
宮良長包生誕120周年記念事業期成会
碑 全景

この碑は市民会館裏の公園内にあります。

70.ふるさとの風にのせて

ふるさとの風にのせての碑
ふるさとの
 風にのせて


制作 西村貞雄



沖縄彫刻会の第一人者・西村貞雄さんのブロンズ像の作品名として記されています。
そばに風に吹かれて美しく立つ女性と犬の像が設置されています。
ブロンズ像 遠景

この碑は市民会館裏の公園内にあります。

71.大浜安伴生誕百年顕彰碑

大浜安伴生誕百年顕彰碑
【表面】

同裏面
【表面】
大濱安伴生誕
百年顕彰碑

あたら島歌
たんでい磨きついけ
我がけーら肝ゆ
すらし給り
  大濱安伴

平成二十四年十月七日建立
揮壱 茅原南龍書

【裏面】
大濱安伴は大正元年十月四日石垣市で出生し平成十三年三月五日九十歳を
一期に那覇市で他界。昭和四年八重山古典民謡を天久用立師に師事し師の上覇後は
石垣喜保師に師事。同二十二年海南時報社主催第一回八重山全島とぅばらーま大会で
優勝。同年八重山民謡研究所を開設。同三十一年八重山文化協会より師範称号を受ける。
同三十五年上覇し八重山民謡研究所を主宰して子弟育成に尽力。
同四十一年演奏と完全に一致する初の教本『八重山民謡三味線工工四』を発刊。
同四十九年系洌長良氏編著『レコード付八重山古典民謡全集』所収の全曲を
みね夫人と共に収録。同五十一年『声楽譜附八重山古典民謡工工四』を上梓。
同年石垣市で八重山古典民謡音楽研究所が結成され名誉会長に推載される。
同五十四年師主宰の八重山古典民謡音楽研究所を発展的に解消し
八重山古典民謡保存会として名称変更。
同年七月那覇支部を結成、翌五十五年関東支部、平成十年に東海支部を結成した。
同五十七年石垣市文化功労者表彰。
同五十八年八重山古典民謡の沖縄県無形文化財指定に伴い、保持者に認定。
同五十九年勲五等瑞宝章、同六十二年八重山毎日文化賞、平成四年沖縄県功労者表彰、
同五年那覇市市制功労者表彰等数々の賞を受賞。
師は実演家、工工四編纂者、指導者として余人の及ばぬ金字塔を打ち立てた。
その陰にはみね夫人の献身的な支えがあった。
生誕百年の節目に当り師の偉業を称えるためこの碑を建立した。

八重山古典民謡保存会 平成二十四年十月七日建立
大濱安伴生誕百年記念事業実行委員会
大浜安伴生誕百年顕彰碑
遠景


この碑は市民会館裏の公園内にあります。

72.尖閣列島開拓記念碑

古賀辰四郎尖閣列島
開拓記念碑 遠景

碑の上部は魚釣島を模ったものになっています。そこに「古賀辰四郎尖閣列島開拓記念碑」と記されています。

同 碑文と地図

古賀辰四郎尖閣列島開拓記念碑

碑文
 古賀辰四郎は福岡県の人 廃藩置県の明治十二年来県 同年那覇で古賀商店を 十五年石垣島大川村海岸近くに八重山支店を開設した  明治二十九年日本政府の許可を得て尖閣列島魚釣島 南小島 北小島 久場島で海陸物産の開拓に心血を注ぎ 生産物資は外国にも輸出 国 県の経済 社会に大きく貢献 明治四十二年藍綬褒章を授与された 子息善次は昭和七年右四島を国より払下げを受け その没後は妻花子がこれを管理した 
  戦後古賀家の遺産は遺言により埼玉県の実業家栗原國起がこれを継承 財団法人古賀協会を創立 沖縄県のスポーツ振興面に貢献しつつある 絶海の無人島に私財を投じ 父子二代の生涯をかけた開拓事業であった この度先覚者の偉業を記念するため支店旧地に近いこの地にこの碑を建立した    -平成七年十二月-
  那覇市西一丁目二〇番地の一
    財団法人古賀協会 会長 栗原佐代子
    碑文並に揮毫        牧野 清
碑文

地図

尖閣列島開拓記念碑は、登野城漁港の先の八島緑地公園の中に建っています。

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