石垣島の石碑・説明看板(市街地-4)  更新 2022.12.05

今回は、No.19の追加を行いました。

ここでは石垣島の市街地(真栄里・平得・浜崎・八島町・南ぬ浜町)にある石碑・説明看板について紹介します。

No. 名 称 場 所
1. 開拓之碑(於茂登) 真栄里・於茂登
3. 八重山群島ミバエ根絶之碑* 平得・開南
5. オウシマダニ撲滅之碑 真栄里
7. (旧)石垣空港の碑 真栄里
9. 感謝の碑 平得
11. 月夜浜節* 平得
13. 真栄里節の碑* 真栄里
15. 高橋洋介顕彰碑 真栄里
17. 登野城漁港の碑 八島町
19. 感謝の碑 八島町
No. 名 称 場 所
2.
4. 暁之塔* 平得・開南
6. 平得アラスク村遺跡 平得
8.
10. 新本井戸頌徳碑 平得
12. パイナーカー 平得
14. 真栄里アーンヌカー跡 真栄里
16. 種籾緊急増殖事業記念碑 真栄里
18. 尖閣列島開拓記念碑 八島町
20. 伊舎堂用久中佐と隊員の顕彰碑 南ぬ浜町

地図1

1.開拓之碑(於茂登)

開拓之碑


碑の裏面
【表面】
開拓之碑

【裏面】
開拓25周年記念事業として
昭和57年10月吉日建立する

先発者
昭和三十二年五月十九日入地
 …以下(入植者名)略・・・


この開拓之碑は、於茂登岳の麓、登山道入口前の広場(公園内)にあります。
於茂登岳は標高526m、石垣島の最高峰だけでなく沖縄県の最高峰でもあります。

2.欠

地図2

3.八重山群島ミバエ根絶之碑

ミバエ根絶之碑


ミバエ誘引トラップ

八重山群島
ミバエ根絶之碑
衆議院議員 中山貞則書



この碑は、農作物に大きな被害を与える害虫のウリミバエ・ミカンコミバエを根絶したことを記念したものです。県道87号線沿いの平得の開南ヘリポート(かつて防除剤や不妊虫投下に活躍したへり基地)のそばにあり、1995(平成7)年2月21日に除幕式が行なわれました。
八重山では1919(大正8)年、ミバエ類の発生が確認されて以来、植物防疫法で農産物の移動が禁止もしくは制限され、農業振興の障害となりました。このため本土復帰の1972年から特殊病害虫特別防除事業がスタートし、ウリミバエ・ミカンコミバエを根絶させました。
駆除は、ウリミバエは「雄除去法」によって、ミカンコミバエは「不妊虫放飼法」によって根絶されました。発生から根絶まで74年、約39億円と、延べ93,000人の労力が投じられました。
現在でも
、東南アジア等の発生地域からの侵入の可能性があることから「不妊虫放飼法」による再侵入防止防除や、警戒用の誘引トラップによるモニタリングが続けられています。
今日、ゴーヤなどの沖縄県産野菜が内地で食べられるのも、ミバエの根絶がなされたことによるものです。



※ 左の写真のトラップは、県農林水産部が西表島に設置したものです。

4.暁之塔

暁之塔 碑文


暁之塔 遠景
暁之塔
横井忠男謹書

第二十八師団第三野戦病院跡

銘記
第二次世界大戦中昭和十九年十月我が第二十八
師団第三野戦病院々長陸軍々医大尉横井忠男
指揮石垣国民学校に病院業務開設間もなく八重山
高女並に八重山農業学校生徒を始め八重山在住の老若男
女数十名を臨時召集内外共筆舌に盡し難き恊力を得
て業務続行中戦況は昼夜を分たぬ空爆艦砲射撃の苛
烈を極め上旨に依り一部同校に残り主力を此の地開南部
落に一部を於茂登山腹に分散し事実上三ケ所業務の止む
なきに至り本土との航行通信は遮断され糧秣は愈々
無く伝染病と栄養失調を克服しつつ在島各部隊の
傷病将兵を収容看護の任に当る間敵弾に倒れ又
己の疾病もかえりみずついに不帰の人となりし
霊並びに軍民をとはず八重山の地に於て戦禍
に倒れし諸霊を合祀せる塔にして当病院生
存者の会(石垣会)有志並に在島有志各位
の浄財と多大なる奉仕によって建立し祖
国永遠の平和の礎と成し諸霊の尊き功
績をたたえ特に戦中倒れし我が病院勤務
の将兵準看護婦をここに記す
 戦没者(イロハ順)
  ・・・【以下略】・・・


この碑は、市街地から県道87号線を北上し県道211号線と交差する所(開南入口)の西側の第28師団第3野戦病院本部跡地に1975年に建立されました。旧日本軍は1944年、石垣国民学校に病院を開設し、八重山高等女学校や八重山農学校の生徒をはじめ住民数十人を臨時召集しました。しかし、昼夜の空爆、艦砲射撃が激しさを増したため国民学校、開南、於茂登の3カ所に分散、負傷兵士やマラリア患者の手当てを行いました。同病院での戦没者は11人で、16歳で准看護婦として看護に当っていた八重高女子生徒もマラリアで死亡しました。

地図3

5.オウシマダニ撲滅之碑

オウシマダニ撲滅之碑


オウシマダニ撲滅之碑 碑文


八重山家畜市場
[表面]
八重山群島
オウシマダニ撲滅之碑
初代沖縄開発庁長官 山中貞則書


[裏面]

 碑文

 八重山群島では 古くから牧畜を盛んに営んでいたが オウシマダニ
が媒介する法定伝染病であるピロプラズマ病の猛威によって莫大な損耗

を被ってきた 更には 郡 県外への牛の移動制限を余儀なくされ 地
域畜産振興の大きな阻害要因となっていた
 かかる実情に鑑み 昭和四六年度(一九七一)から国庫補助による沖
縄牧野ダニ対策として駆除 清浄化撲滅 清浄維持事業を継続し実施
してきた
 我々は 「一頭もれなく」を合い言葉に 打って一丸となった生産農
家の努力により二八年間に亘る一三億七千万円余の巨額と延べ三〇六万
頭に及ぶ薬浴 プアオン法によつてオウシマダニとピロプラズマ病を完
全に撲滅し 牛の移動制限が解除された
 ここに この世界的な先人達のオウシマダニ撲滅に挑んだ功績を子々
孫々に伝え 併せて八重山群島の畜産業の飛躍的発展を祈念し この碑
を建立する
 平成一二年二月十日
  沖縄県知事
    稲嶺 恵一



 沖縄県では復帰後、三大撲滅事業が進められました。マラリア、ミバエ、最後がオウシマダニでした。オウシマダニは一匹で3ミリリットルくらいの牛の血を吸い、血液のたん白質を 摂取することで成長します。子牛は貧血になったり栄養失調になり、例えば黒島では、子牛10頭のうち2頭は死亡、2頭は発育不良で商品価値がなくなり、まともに育つのは6頭程度と言われていました。オウシマダニは法定伝染病のバベシア原虫を病原体とするピロプラズマ病を伝染し、2週間の潜伏期を経て牛の赤血球を破壊し、感染牛は激しい貧血、黄疸症状を起こし死亡します。
 オウシマダニの駆除は 草地のダニと牛に付着したダニの両面作戦で行なわれました。草地は薬剤散布、牛体は牧場などに薬浴施設を設け、駆除が進められました。



このオウシマダニ撲滅之碑は、八重山家畜市場入口の左手にあります。

6.平得アラスク村遺跡

平得アラスク村遺跡の説明板


平得アラスク村遺跡 周辺光景
平得アラスク村遺跡
県指定史跡
昭和56年8月13日
 平得部落の北東1.5Kmの琉球石灰岩地帯に形成された八重山編年第Ⅲ期(15・16世紀)に相当する遺跡で 石囲いの遺構内に多量の中国製陶磁器 八重山式土器等が散見され かたわらには降り井戸が残っている。
 伝承によると 本遺跡はアラスク村と称されていたようで 今日みる平得部落の前身だといわれている 平得部落は ペーギナー村(熱帯農業研究センター北側の平喜名遺跡)から当遺跡へ さらに南側のウィスズ村(ウィヌスズ遺跡) ナカンドゥ村(仲本村遺跡群)を経て 現在の平得に定着されたと伝えられており 村落変遷を知るうえで貴重な資料を残している
 当遺跡は本来 土塊を含む石垣等を有し かなりの規模を誇っていたが 近隣の圃場整備により 中心部のみが残っている
  昭和61年3月
  石垣市教育委員会
  沖縄県教育委員会



(注) 平得アラスク村遺跡は八重山家畜市場の西に位置しており、遺跡への道は、細い農道となっています。 本説明板の前には車が止められる程度のスペースはありますが、 広くはありません。

平得アラスク村遺跡の北側には牛舎等があり、周辺には私有地も多いので近隣の方々に迷惑のかからないように注意して下さい。

地図4

7.(旧)石垣空港の碑

石垣空港の碑


碑の設置場所(左側)
石垣空港
ISHIGAKI AIRPORT


この碑は旧石垣空港への進入道路沿いに設置されています。(2018.8確認)

8.欠

9.感謝の碑

感謝の碑


同碑文


碑遠景



裏面


裏面プレート拡大
【表面・上部】
感謝の碑

【表面・下部】
碑文

 多良間島は一七七一年(明和八年)に大
津波と二度にわたる暴風によって大きな
被害を受け飢餓状況に陥り多数の
餓死者を出していた。
 そのような状況の中で二百人余の住民は
食糧を求めて宮古島に渡る途中時化に遭い
石垣島に漂着した。またくり舟で石垣島に渡り
救助を求めたりした。
 当時石垣島も被害は甚大で食糧事情も
厳しいものがあったと言われている。
 それでも石垣島の皆さんは人命尊重の
思いから多くの人々を手厚く保護された上
島に残っている住民への食糧支援まで
して頂いた。
 こうした言葉に言い尽くせないご厚情を
受け多良間島の住民は生きる力と勇気を
得てその後の歩みを切り拓くことができた。
 そこで多良間村制施行百周年の佳節に
碑を建立し感謝の意を表すものである。
 二〇一四年(平成二十六年)三月吉日
 多良間村長 伊良皆光夫
 多良間村民一同
 八重山在多良間郷友会

【裏面プレート】
石材寄贈
 山川朝源
揮毫
 羽北正弘
刻字
 崎山寛樹



この碑は石垣市中央運動公園・屋内練習場の南側にあります。

10.新本井戸頌徳碑

新本井戸頌徳碑 【正面】


【左側面】


【裏面】


【右側面】


碑 遠景


新本井戸
【正面】
新本井戸頌徳碑


【左側面】
頌徳碑建設委員長 東山当肝名
宇里家一門代表   宇里州弘
平得部落会長    田本信正
頌徳碑文起草者   喜舎場永珣
設計工事大工    鳩間石●
碑文彫刻大工    田場由佳
碑文字謹書者    宮良保●

【裏面】
平得村ハ十五世紀ノ中葉頃宇里家ノ祖ニ当ル七人兄弟ニヨツテ仲本村カラ現地ニ移転シ茲
ニ平得村平池ノ土台ガ据エラレタノデアルコレ七人兄弟ノ祈願ト努力ノ賜モノト言ワナケ
レバナラナイ創建ニ際シ村ノ生命ト●●水ノ供給ニ非常ナ困苦ヲナメサセラレダノデ兄弟
ハソノ旨ヲ神ニ祈願シタトコロ新本家ノ宅内ニ霊示ガ印サレタノデ兄弟ハ神託ノママニ
工事ヲ始メタガ神霊ノ加護ニヨツテ見事ニ竣工シ新本井戸ト命名サレタコレ●●平得村ニ
於ケル掘抜井戸ノ始メデアルコレニヨツテ水難ハ解消セラレ村人ノ喜ブコト限リナク以来
新本井戸ヲ神泉トシテ●●シ生命泉トシテ感謝シテ来タノデアルコノダビ平得部落民コゾ
ツテ七人兄弟ノ偉業ヲ称エ神徳ヲ崇神スルノ●止ミ●ク●ニ部落浄財ヲモツテ新本井戸ノ
井桁ト土台ヲ改修シ碑ヲ建テ以テソノ頌徳ヲ永ク後世ニ残ス次第デアル
 一九五四年          昭和二十五庚寅年十一月三日吉日

【右側面】
神力無限

※ ●は風化により判別不能な文字です。


この碑は宇部御嶽の西側、産業道路から石垣市運動公園・東端に向う道の右側にあります。

11.月夜浜節

月夜浜節の碑(表面)


(裏面)

【表面】
月夜濱節 (現代訳)
月夜濱だぎに
岸ぬ浦ぬ木綿
木綿花 作くてぃ
木綿かしかきら
くりかえし 返し
指はぢき 見あぎりば
筋むつぃぬ 美らさ
ゆみ美らさあむぬ
吹かば飛ぶ手巾
しゅて待ちゅら
月夜の浜のように真っ白い
岸の浦の木綿畑
木綿の花を作って
木綿糸を作りましょう
 繰り返し 返し
指で解いてみたら
糸筋も美しく
ゆみ糸もよく揃って美しい
吹けば飛んでしまうような 最上品の手巾を
織って 里前(彼氏)が来るのを待ちましょう

【参考】
(1)  「岸ぬ浦」とは、石垣市登野城から伊原間方向へ約24km先の金武岳の南方の肥沃な土地で、別名、「南の浦(ハイノウラ)」とも言います。海岸に断崖があるので、「岸」と言われており、これに続いている土地であることから「岸ぬ浦(岸の浦)」と称されていたようです。
(2)  木綿からは木綿布を作ります。人頭税時代には、各部落ごとに一箇所で共同栽培していて、平得村は、岸の浦で綿花栽培を共同で行っていたようです。綿花の共同栽培は、婦女子に課せられた人頭税である「御用布」を織る原料を得るための重要な仕事でした。
(3)  「指はつぃき」は、綿花を採って来て乾燥させ、木製の大弓の絃を棒ではじいて解し、つむぐことを言います。
(4)  「吹かば飛ぶ手巾(てぃさじ)」は、吹いたら飛ぶくらいの極細上の手巾のことです。ここでは恋人に捧げるために心をこめて織り、彼を待つ思いが想像できます。この歌は「究極の恋の唄」といってもよいでしょう。

【裏面】

 平得村新本家の祖先は篤農の士で、田
畑農耕の他に遠く大野岳の麓、南風の浦
(岸の浦)の地を村人たちと開拓し、自らも
広く木綿を栽培していた、
 満月の夜、一面に満開し真白に輝い
ている綿花の情景が、あたかも月夜の砂
浜の如くであることを、月夜浜ユンタとして
詠み歌った、このユンタは平得村内に愛唱
されていた、
 その頃(宝暦八年、一七五八)平得村与人で
あった黒島当応は、月夜浜ユンタをもと
に月夜浜節を採譜し工工四に載せて
いる、
 以来、八重山の古典音楽として広く唄い
つがれている、 此に新本家祖先の遺徳
を偲ぶとともに、平得の弥栄を祈念し
て歌碑を建立する、

 平成十八年(二〇〇六)十一月二十三日
         月夜浜節歌碑建立期成会
              揮壱 田本ひろえ
              篆刻 崎山寛樹



この歌碑は平得大阿母御嶽東側のお祭り広場にあります。2006年11月23日に建立されました。

 「月夜浜節」は平得の新本家の祖先が、田畑耕作の傍ら、遠く離れた大野岳(伊野田集落の北側)の麓を開拓して綿を栽培し、その真っ白な綿の花が満開した情景を見て、「満月の夜の浜辺に似ている」と胸を打たれ「月夜浜ユンタ」に詠み歌いました。
 1758年、平得村与人(村長)だった黒島当応が「月夜浜ユンタ」をもとに改作改曲し、工工四に載せたそうです。世間からは、この新「月夜浜」を歌う様になり、新本家のユンタは歌われなくなったそうです。

12.パイナーカー

パイナーカーの説明板


パイナーカー
石垣市指定文化財/史跡
City Designated Cultural Property Historical Site
パイナーカー
Painaka/Paina 井
昭和55(1980)年10月31日指定
October 31, 1980 designated

 この井戸は、長さ約20m、40段の石段があるウリカー(降り井戸)である。ウリカーとは直接水面まで降りて水をくむ井戸のことで、琉球石灰岩の岩盤を削って作られている。
 平得村の伝承によると、年代は明らかではないが、井戸のある場所付近がナカントゥと呼ばれていた頃、ウーリヤー(宇里家)に武勇に優れた7兄弟がいて、昼間は彼らが井戸を掘り、夜は神が掘って、この井戸が完成したといわれている。
 平得村の共同井戸として、一般家庭へ水道が普及されるまで大切に利用された。また、井戸の周辺からは多くの鉄滓や土器が見つかっており、パイナーカー遺跡としても知られる。
 なお、この地域において許可を得ることなく現状を変更し、または保存に影響を及ぼす行為をすることは石垣市文化財保護条例で禁じられています。

 Painaka is a descending well (Urika) that was made by digging through a base rock of Ryukyu limestone, and has a depth of 20 meters and a 40 step stone stairway. According to the oral tradition of Hirae, this well was dug by the seven Uriya brothers during the day and by a God at night. Painaka is a public well of the Hirae district, and it was carefully used before tap water became prevalent.
  平成26(2014)年3月 石垣市教育委員会
               文化財課 83-7269



 パイナーカーは平得の沖縄県警察安全運転学校八重山分校の南西側(国道370号線南側)にあります。

13.真栄里節の碑

真栄里節歌碑(上部)


真栄里節歌碑(下部)


真栄里節歌碑 遠景
[上部]
真栄里節

だんぢゅ豊まりる
真栄里ぬ村や
中村ゆくさでぃ
作場前なし

うやふあ睦ましく
夫婦たちしゅらさ
村中肝揃ろ
てぃ
情けばかり

[下部]
この歌は明治の中期 最後の真栄里首里大屋子職松茂氏宮良當意翁が作詞作曲され 真栄里村を象徴する民謡として 村民に愛唱されてきた
 村民の精神的支柱として 永く後世に歌い継がれることを願って 茲にこの歌碑を建立した
 平成五年十月
  真栄里節歌碑
   建立実行委員会



この碑は真栄里公民館の東南角(道路隔てた向かい側)にあり、1993(平成5)年、歌碑建立実行委員会によって建立されました。当初は、同公民館敷地内にありましたが2010(平成22)年の公民館の新築に伴い、現在地に移設されました。歌碑の隣はアーンヌカーと呼ぶ村の共同井戸の跡地で、井戸をイメージした水落としも併設され、地域の文化的象徴として後世に残されています。

14.真栄里アーンヌカー跡

真栄里アーンヌカー跡の碑


真栄里節の碑(中央)および
アーンヌカー跡の碑(左)
   真栄里アーンヌカー跡
 ここに「アーンヌカー」と呼ばれる真栄里村のウブカー(共同井戸)があった
 この井戸は古文書によると首里王府番所(オーセ)直営製糖家(シートーヤ)の水源としても利用されたという
 太平洋戦争中「軍の防空壕」として使用され戦後埋められた
 真栄里地域にはいくつかの井戸があったが水道の普及などによってそのほとんどが消失している
 公民館改築に伴って真栄里節の碑を移設するとともに井戸をイメージし水落しを設けた
 真栄里節・「アーンヌカー」を真栄里地域の文化的象徴として後世に残す
 二〇一〇年五月一五日
  真栄里公民館建設事業期成会



この碑は真栄里公民館のそばにあります。

地図5

15.高橋洋介氏顕彰碑

高橋洋介氏顕彰碑 [上段]


[同 下段]


碑の裏面から (右側が該当)
[上段]
岩手 絆 石垣
高橋洋介氏の功績を讃える
平成25年1月26日

[下段]
 岩手と石垣島の交流は今年20年の節目を迎えました。
 交流のきっかけとなった平成5年、岩手が大冷害に襲われた際に石垣島において種籾増殖事業の指揮を執ったのが当時、岩手県農政部長の高橋洋介さんでした。盛岡農業改良普及所の菅原那典上席普及員を石垣島に派遣し事業を成功に導きました。新品種は「かけはし」「ゆめさんさ」と名付けられ、岩手と石垣の交流の象徴となりました。
 岩手・沖縄かけはし交流は、今や沖縄県の農業技術向上をはじめ石垣島マラソンや高橋さんの古里の北上マラソン、岩手県立盛岡第四高校と沖縄県立八重山高校の姉妹校提携等、幅広い民間交流に結実しています。
 平成23年3月11日の東日本大震災は三陸海岸に未曽有の被害をもたらしました。沖縄・石垣島の方々には物心両面にわたって多大な支援を頂きました。高橋さんは感謝の意を示しながら同年8月9日に他界しました。
 岩手と石垣島の交流発展に尽力した高橋洋介さんの功績をしのび、ここに顕彰碑を建立します。
 平成25年1月26日
 岩手・石垣 高橋洋介顕彰碑建立期成会

16.種籾緊急増殖事業記念碑

種籾緊急増殖事業記念碑 [上段]


[同 下段]


碑の表面から (右側が該当)
[上段]
岩手県出納品種『かけはし』
 種籾緊急増殖事業記念碑
    菅原那典君を讃えて
        平成21年1月24日 建立

[下段]
 平成5年、岩手県の水稲作況指数は僅か『30』という未曽有の大冷害に襲われました。このため、岩手では翌年度の種籾の確保が困難になりました。
 そこで、当時開発中のオリジナル品種『かけはし』を石垣島で栽培し、収穫したお米を種籾として使う緊急増殖事業が計画されたのです。幸い、この事業は、石垣島の農家の皆さんをはじめ、沖縄県や石垣市などの関係する方々の暖かいご協力により、見事に成功いたしました。
 その間現地に常駐し、『かけはし』の栽培指導に当ったのが菅原邦典君でした。事業の成功の陰には、菅原夫妻の遠隔の地での並大抵でない苦労があったのです。その努力が現在もかけはし交流となって、岩手と沖縄の交流に実を結んでいます。
 私達は15年を経た今、両県の交流が末永く続くことを願い、さらに平成20年6月に他界した菅原君の功績を後世に伝えるため、この記念碑を建立し、かけはし交流の証とします。
 岩手・沖縄かけはし交流会
 会長 高橋 洋介     石垣支部長 大濱長照


「かけはし」の種籾増殖事業の詳細については、以下を参照して下さい。
いわて純情米需要拡大推進協議会サイトの「夢のかけはし物語」



この碑は前項の碑と一体化され、真栄里運動公園の東側に設置されています。
元はJAライスセンターにありましたが、その後現在地に移設されました。

17.登野城漁港の碑

登野城漁港の碑


登野城漁港施設配置図
登野城漁港


この碑は国道390号バイパス道路から第一船揚場に左折する交差点の西側にあります。隣には登野城漁港施設配置図も設置されています。

18.尖閣列島開拓記念碑

古賀辰四郎尖閣列島開拓記念碑 遠景


同 碑文と地図


碑文


地図
古賀辰四郎尖閣列島開拓記念碑

碑文
 古賀辰四郎は福岡県の人 廃藩置県の明治十二年来県 同年那覇で古賀商店を 十五年石垣島大川村海岸近くに八重山支店を開設した  明治二十九年日本政府の許可を得て尖閣列島魚釣島 南小島 北小島 久場島で海陸物産の開拓に心血を注ぎ 生産物資は外国にも輸出 国 県の経済 社会に大きく貢献 明治四十二年藍綬褒章を授与された 子息善次は昭和七年右四島を国より払下げを受け その没後は妻花子がこれを管理した 
  戦後古賀家の遺産は遺言により埼玉県の実業家栗原國起がこれを継承 財団法人古賀協会を創立 沖縄県のスポーツ振興面に貢献しつつある 絶海の無人島に私財を投じ 父子二代の生涯をかけた開拓事業であった この度先覚者の偉業を記念するため支店旧地に近いこの地にこの碑を建立した    -平成七年十二月-
  那覇市西一丁目二〇番地の一
    財団法人古賀協会 会長 栗原佐代子
    碑文並に揮毫        牧野 清


碑の上部は魚釣島を模ったものになっています。
そこに「古賀辰四郎尖閣列島開拓記念碑」と記されています。

この尖閣列島開拓記念碑は、登野城漁港の西の八島緑地公園の中に建てられています。

19.感謝の碑

 感謝の碑


同 裏面


遠景 (右側)

 【表面】
沖縄県祖国復帰50周年記念
 感謝の碑
八重山防衛協会 八重山防衛隊家族会 隊友会八重山支部

【裏面・右側】

沖縄県祖国復帰五十周年記念「感謝の碑」

 今年、沖縄県は祖国復帰五十周年の記念すべき年を迎える。
 祖国復帰前の沖縄県は先の大戦における苛烈な戦禍らより緑り豊
かな島々は焦土と化した。その後、四半世紀に及ぶ米軍の占領・統
治等の歴史的事情を経て、国や県民、市民、群民の努力により幾多
の困難を克服し充実・発展した地域に成長した。また、沖縄県は本
土から離隔し、広大な海域(東西千キロ、南北四百キロ)に多数の
離島(約百六十)が存在する地理的特性を有する島嶼県であり、そ
の特性を活かした観光関連産業を基盤に大きく発展してきた。
また、これまで国は沖縄の脆弱な地域経済と沖縄の特殊性に鑑み、
国の責務として沖縄振興特別措置法に基づき振興策を推進してきた。
この間、主として「本土との格差是正」及び「民間主導の自立型経
済の構築」を目指すとともに、沖縄の自主性を尊重しつつ総合的か
つ計画的な振興を図り、沖縄の自立的発展と豊かな住民生活の実現
に取り組んできた。
 我々沖縄県民、市民、八重山群民も共に沖縄の振興発展に弛まぬ
努力を積み重ね、地域の発展に積極的に邁進した結果現在がある。
 更に戦後、我が国は一貫した専守防衛政策に取組み、必要最小限
の防衛力を整備した防衛省・自衛隊の地道な活動により、国家の平
和と安全が保たれてきた。ここに沖縄県祖国復帰五十周年記念「感
謝の碑」を建立し、国家、国民、市民、群民に感謝するとともに、
更なる国家の繁栄と沖縄県、八重山地域の振興発展、これまでの防
衛省・自衛隊の活動に敬意を表し「感謝の碑」を建立する。

令和四年五月吉日
  沖縄県祖国復帰五十周年記念
   「感謝の碑」製作実行委員会
          八重山防衛協会
          八重山防衛隊家族会
          隊友会八重山支部

【裏面・左側】
「感謝の碑」実行員会
 【以下氏名略】



この「感謝の碑」は八島緑地公園の「尖閣列島開拓記念碑」の横に建てられています。

20.伊舎堂用久中佐と隊員の顕彰碑

伊舎堂用久中佐と隊員の顕彰碑


同裏面


碑 遠景

【表面 上段】
大日本帝國陸軍
 第八飛行師団誠第一七飛行隊
伊舎堂用久中佐と
 隊員の顕彰碑


【表面 下段】
石垣島から出撃した特攻隊員
誠第十七飛行隊
 以下氏名略
独立飛行第二十三中隊
 以下氏名略
飛行第十七戦隊
 以下氏名略
飛行第一〇五戦隊
 以下氏名略
飛行第十九戦隊
 以下氏名略
計三十一名

【裏面 右側】
碑文
 大東亜戦争終結六十八年を経たわが国は、戦後の荒廃を乗
り越え、平和で豊かな生活を送ることが出来ています。現代のわが
国の平和と繁栄は、国家存亡の危機に殉じた英霊と戦争の犠牲
となった多くの方々の礎によってもたらされたことを心に留め、その史
実を後世に伝えていかなければなりません。大東亜戦争末期、戦
況の打開を図るべく、大日本帝國陸軍は特別攻撃隊を編成し
石垣島にあった特別攻撃隊の基地からも、鎮護の任に当たるべく、
若者達が身命を擲って出撃し、千尋の海に散華しました。
 大日本帝國陸軍第八飛行師団誠第十七飛行隊長であっ
た石垣島出身の伊舎堂用久大尉率いる伊舎堂隊四機と直掩
機六機は、昭和二十年三月二十六日午前四時に、石垣島白
保にあった基地より陸軍特別攻撃隊の先陣を切って出撃し、慶
良間列島西方海上の敵空母群に特攻を行い、その戦果は全国に
大々的に報じられました。
 郷土と国を愛し、悠久の大義に生きる精神により散華した伊
舎堂用久中佐(特別攻撃後、二階級特進)と隊員の遺功を後
世に伝え、これからの時代に於いても、郷土と国を護る崇高な精
神を育み、恒久平和を希求する為、伊舎堂用久中佐と隊員の
顕彰碑をここに建立します。 平成二十五年八月十五日
  遺詠 伊舎堂用久 中佐
 指折りつつ 待ちに待ちたる機ぞ来る
      千尋の海に散るぞたのしき

【裏面 中央】
特攻機 誠第十七飛行隊
 以下氏名略
直掩機 独立飛行隊第二十三中隊
 以下氏名略

【裏面 左側】
伊舎堂用久中佐と隊員の
  顕彰碑建立期成会
会 長  三木 巌
揮 毫  豊平 峰雲
石提供  大島 彦成



この碑はサザンゲートブリッジを渡った南ぬ浜町の南側公園内にあります。
  

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