石垣島の御嶽  更新 2014.09.27

御嶽は神聖な場所なので、むやみに立ち入らないでください。
※今回は、次表の青字で示す御嶽について追記しました。

 石垣島は古くから八重山地域の中心地であり、また多くの歴史を有する地でもあったことから数多くの御嶽があります。 特に古くからある集落(村)には著名な御嶽があります。

 各御嶽の紹介

No. 名 称 場 所
1. 美崎御嶽(ミシャギオン) 登野城
3. ユーヌ火之神 登野城
5. 船着御嶽(フナツキィオン) 登野城
7. キツィバカ御嶽(キツィバカオン) 登野城
9. 米為御嶽(イヤナスオン) 登野城
11. 船浦御嶽 登野城
13. 長崎御嶽(ナガサキオン) 新川
15. 長田御嶽(ナータオン) 石垣
17. 龍宮の御嶽 石垣
19.

大石垣御嶽(ウシャギオン)

大川
21. 大阿母御嶽(ホールザーオン:オオアモオン) 平得
23. 名蔵御嶽(ナグラオン) 名蔵
25. 群星御嶽(ンニブシオン) 川平
27. 浜崎御嶽(キファオン) 川平
29. 火の神御嶽(ピィナカンオン) 大浜
31. 黒石御嶽(クルセオン) 大浜
33. 山崎御嶽(ハマシキィオン) 宮良
35. 嘉手刈御嶽(カチガラオン) 白保
37. 多原御嶽(ターバルオン) 白保
39. 真謝御嶽(マジャオン) 白保
41. 旧盛山村跡の御嶽 白保・盛山
No. 名 称 場 所
2. 蔵元の火の神(クラヌビィナカン) 登野城
4. 天川御嶽(アーマーオン) 登野城
6. いちむるお嶽 登野城
8. 糸数御嶽(イトゥカジィオン) 登野城
10. 真泊嶽(マドゥマリィオン) 登野城
12. 真乙姥御嶽(マイツバーオン) 新川
14. 宮鳥御嶽(メートゥルオン) 石垣
16. ビッチンヤマ 石垣
18. 長田大翁主霊(ナータウフシュリョウ) 石垣
20. 多田御嶽(タダオン) 真栄里
22. 宇部御嶽(ウブオン) 平得
24. 赤イロ目宮鳥御嶽(アカイロメミヤトリオン) 川平
26. 山川御嶽(ヤマオン) 川平
28. 崎原御嶽(サキバルオン) 大浜
30. 大石御嶽(ウイヌオン) 大浜
32. 船着御嶽(フナツキィオン) 大浜
34. 外本御嶽(ナカヌオン) 宮良
36. オーセ 白保
38. 波照間御嶽(アスクオン 白保
40. トイの御嶽 白保
42. 半嵩御嶽(ハンダキオン) 伊原間

1.美崎御嶽(ミシャギオン)

「美崎御嶽」遠景


「美崎御嶽」の説明書き
「美崎御嶽」の説明書きより一部抜粋

 県指定記念物 史跡
 県指定有形文化財 建築物  美崎御嶽
 尚真王のころ、石垣市登野城の美崎山に創建された航海安全を祈願するための御嶽である。神名を大美崎トウハ、御イベ名は浦掛ノ神ガナシという。
 御嶽の由来については、遠弥計赤蜂の乱(AD1500年)の時に首里王府派遣の兵船の那覇港への安着を祈願して、神女の真乙姥が籠もったところといわれている。
 御嶽の周囲は石垣がめぐり、中央部には拝殿にあたる拱式(アーチ)の石門がある。石門の構造は、屋根石を架し、棟中央に火炎宝珠を乗せている。規模こそ小さいが首里王城下の園比屋武御嶽に類似するといわれている。この拝殿を「イビの前」と称し、その奥には石や岩、大木等があり、そこをイビと称している。
 この御嶽は、王府より派遣された役人の離着任時、農耕儀礼などに高官や大阿母によって拝され、公儀であった。現在は字大川の村拝所として住民の信仰地となっている。昭和31年2月、県指定有形文化財(建造物)としても指定され、史跡と建造物の二重指定をうけている。


 「美崎御嶽」は、オヤケアカハチの乱を制圧した王府軍が海路を無事で首里に帰還できるよう、真乙姥(マイツバ)が美崎山の聖地に籠もって祈願し、その願いが叶えられたことから創建された、航海安全祈願の御嶽です。 代々、八重山の蔵元が管理するクギィオン(公儀御嶽)として尊崇を集めてきました。
「美崎御嶽」拝殿


「美崎御嶽」のイビ石門

2.蔵元の火の神(クラヌビィナカン)

「蔵元の火の神」 「蔵元の火の神」は元々「西塘」が竹富島に蔵元政庁を創設した際に建立したと伝えられ、琉球王国の安定、八重山や蔵元政治の守護を祈るものでした。その後、石垣島に蔵元が移設されるのに併せて移されました。
その蔵元は、現在の八重山支庁・八重山博物館を含む一帯にありましたが、今では美崎御嶽の境内に移転されています。

3.ユーヌ火之神

「ユーヌ火之神」
美崎御嶽の鳥居を入った左手(北側)にある御嶽です。
安全、平和、健康、繁栄などを祈願した「火之神」が祀られていて、各家庭に分けられ、かまどに祀ったのだそうです。

4.天川御嶽(アーマーオン)

「天川御嶽」

「天川御嶽」遠景
「天川御嶽」の説明書きより一部抜粋

 天川(アーマー)とは、この地一帯の称で、古くは天川原(アーマーバル)と呼ばれていた。また、御嶽(オン)とは、村人の健康や村の繁栄などを祈願する聖地である。
 天川御嶽の歴史は古く、「八重山島由来記」(1705年頃)にも記されている。
登野城(トゥヌスク)村の伝承では、新城家(アーマーヤー)の祖先で霊験(セジ)高く篤農家でもあった野佐真(ヌサマ)が天川原の霊石(イビ)を信仰していたことから毎年豊作・豊漁に恵まれ、そのため村人たちにもその霊石を尊信するようになり、豊作・豊漁の神として信仰するようになった、といわれている。
 首里王府時代には、沖縄本島への貢納船に乗り込む役人の航海安全を祈願する七嶽(ナナオン)(美崎[ミシャギ]・宮鳥[メートゥル]・長崎[ナースク]・天川[アーマー]・糸数[イトゥカズ]・名蔵[ノーラ]・崎枝[サキダ])の一つとされていた。
現在でも折々の祈願のほか、旧暦六月には豊作への感謝と来る年の豊穣を祈る豊年祭が古式豊かに執り行なわれている。


「天川御嶽」の拝殿は1874年(明治7年)に茅ぶきで建立されて以来、3度改築されましたが、最後に改築された1963年から45年以上が経過し老朽化が進んだため、2010年6月に実に135年ぶりに建替えられました。なお、旧拝殿の解体工事は重機を使わず、素手で解体されたそうです。
改築前の「天川御嶽」

【2009年11月撮影】
「天川御嶽」は、登野城の那覇地方裁判所・検察庁の東側にあります。

5.船着御嶽(フナツキィオン)

「船着御嶽」
「船着御嶽」の鳥居
登野城漁港のすぐ近くにある御嶽で、御嶽の向かいには「サザンゲートブリッジ」があります。
かつては、宮良湾(西側)の入り江が船着御嶽のあるフナスク(船着き場)という地名のところまで入り込んでいて、ここが海上交易の拠点となっていたようです。

登野城集落にとっては非常に重要な場所であり、アガリグヤの糸満系漁民たちの精神的支えともなっている御嶽です。
ユッカヌヒー(旧5月4日)には爬龍船が祭られ、海の恵みに感謝するとともに豊漁と航海安全が祈願されます。
「船着御嶽」遠景

6.いちむるお嶽

「いちむるお嶽」
登野城の美崎御嶽近くの、国道390号線の北側にある御嶽ですが、由来については調査不足で不明です。建物の間に挟まれ、入口からかなり奥に入った所にある御嶽です。
なお、御嶽前には次のように記されています。
いちむるお嶽
平成3年10月22日
(旧9月15日)竣工
「いちむるお嶽」

7.キツィバカ御嶽(キツィバカオン)

「キツィバカ御嶽」
桟橋通りの、サーターアンダギーで有名な「さよこの店」と2号線との間にある小さな御嶽ですが、由来等、詳細については調査不足で不明です。 「キツィバカ御嶽」

8.糸数御嶽(イトゥカジィオン)

「糸数御嶽」
登野城は石垣島内でも早くから集落が形成された地域で、そのため多くの御嶽が点在しています。
糸数御嶽のある場所は、登野城村の東端に位置し、かつてはここより東には家はなかったそうです。国道370号線より南は海岸線で八重山の離島や沖縄本島を行き来する船着き場があり、航海の安全を祈った場所とのことです。
「糸数御嶽」遠景


9.米為御嶽(イヤナスオン)

「米為御嶽」イビ門


「米為御嶽」の説明標柱より一部抜粋

 米為御嶽は、八重山にはじめて稲作を伝えたとされる兄タルファイ、妹マルファイのうちマルファイの墓とされ、のちの人々が稲作を伝えた神として尊崇し、御嶽として信仰されるようになったといわれる。御嶽とは人々の健康や地域の繁栄などを祈願する聖地のことで、米為御嶽は字登野城の御嶽として信仰されている。また、タルファイの墓も同様に尊崇され、大石垣御嶽(ウシャギオン)として字大川の人々に信仰されている。
 伝承によれば、タルファイ・マルファイは安南(現在のベトナム)のアレシンという所から稲種子を持って来島し、登野城の小波本原(クバントゥバル)に住居し、水田を開いて島民に稲作を指導したとされる。登野城の種子取祭や豊年祭などの農耕儀礼は、この御嶽と兄妹の住居跡とされる小波本御嶽を中心に、現在でも古式豊かに執り行なわれている。

Tai phi and Mal phi are two siblings who were the first to introduce rice growing to the Yaeyama region. It is said that the Iyanasu On (sacred praying site) is grave of Mal phi that became worshiped by the future generations. The grave of the Tal Phi is similarly worshiped by the local people as the Ushagi On.
「米為御嶽」遠景

この御嶽は、石垣市営野球場の西側にあります。

10.真泊嶽(マドゥマリィオン)

「真泊嶽」

琉球王府から命令を受け、三司官(国務大臣)や御検視官、在番たちが毎年八重山にやって来ていました。彼らは、公用船「馬艦船(まーらんぶに)」に乗って来て、今の登野城漁港の先辺りにあった美崎泊に錨を下ろし、そこから小伝馬船に乗り移って上陸していました。
その上陸地点の直ぐ傍にあったのが真泊嶽(古くは美崎真泊とよばれていた)で、航海安全の神が祭られていました。

「真泊嶽」側面より

この御嶽は、大濱信泉記念館の裏手(東側)にあります。

11.船浦御嶽

「船浦嶽嶽」
由来等、詳細については調査不足で不明です。
拝所だけが残されている状況です。
「船浦嶽嶽」遠景

この御嶽は、美崎御嶽の西側(海側)にあります。

12.真乙姥御嶽(マイツバーオン)

「真乙姥御嶽」


 1500年、オヤケアカハチの乱で、琉球王府・中山軍に協力した八重山の群雄割拠時代の英雄、長田大翁主(ナータウフシュ)の妹・真乙姥(マイツバ)という女性を祀った御嶽です。

 オヤケアカハチと敵対した長田大主には、真乙姥と古乙姥(クイツバ)の二人の妹がいましたが、長田大翁主は妹の古乙姥を今で言う政略結婚という形でオヤケアカハチの元に嫁がせ、隙を見てオヤケアカハチを暗殺するように指示しました。 しかし、古乙姥はオヤケアカハチを愛してしまい、兄の企みには加担せず、結果としてオヤケアカハチとともに王府軍に殺されてしまいました。
 一方、長田大翁主のもう一人の妹、真乙姥は兄に従い王府軍のために働きました。 オヤケアカハチの乱鎮定後、王府軍が首里まで無事帰還できるよう、美崎山へこもって祈願しこれが叶ったということから永良比金(イランビンガニ)という神職を授けられました。 その後、真乙姥は人々の尊敬を集め神職としての役目を全うし、没後は立派な墓が作られ供養されました。そして、この墓地は真乙姥御嶽として多くの人々から崇敬されるようになりました。

 この真乙姥御嶽では、毎年旧暦の6月に四箇字(石垣・登野城・大川・新川)の盛大な豊年祭(ムラプール)が執り行われています。
オオバアコウの木

拝殿斜め前には、オオバアコウの大木(推定樹齢:200〜300年)があります。

「真乙姥井戸」
(マイツバカー)


 「真乙姥御嶽」の東側の道路を少し上ると「真乙姥井戸(マイツバカー)」があります。 石垣中学校の正門前になりますが、正に道(十字路)のど真ん中にあります。
 丸い石造りの井戸は、既に蓋がされ使用されている様子はありませんが、桶を吊り下げていたと思われる金具などが昔のまま残されています。
 この井戸は、真乙姥御嶽を深く信仰していた宇根通事(ウーニトゥージ)という地元の船頭が掘ったとされ、今でもこの井戸の水は神事に使われているそうです。

井戸の正面には次のように記されています。
 昭和五十七年
 真乙姥井戸
 宇根弘
「真乙姥井戸」

写真左手が石垣中学校の正門です。

13.長崎御嶽(ナガサキオン)

「長崎御嶽」
石垣島四ヶ字の豊年祭・オンプールにおいて、字新川(集落)の会場となるのが「長崎御嶽」です。オンプールでは豊作の感謝を祈願します。

昔、長崎家の祖が森で怪しい火の明滅に気づき、訪ねてみると夫婦石があったそうです。霊石に違いないと考えた祖は、それ以来お参りするようになります。
ある凶作の年、なぜか長崎家の作物だけは豊かに実ったそうです。そこで村人たちは社を建て信仰を深めたのが、この「長崎御嶽」の由来とされています。
「長崎御嶽」のイビ

14.宮鳥御嶽(メートゥルオン)

「宮鳥御嶽」遠景


「宮鳥御嶽」拝殿


「宮鳥御嶽」の説明書き
「宮鳥御嶽」の説明書きより一部抜粋

 この御嶽は、文献上は最初に「八重山嶋由来記(やえやまじまゆらいき)」(1705年)に記載されており、「琉球國由来記(りゅうきゅうこくゆらいき)」(1713年)には「宮屋鳥御嶽」という表記もある。 方言では「メートゥルオン」などと呼ばれている。 神名は「ヲレハナ」、御イベ名は「豊見タトライ」とある。
 上の二つの由来記によれば、「石城山(いしすくやま)に住んでいたナアタハツ、平川(ひさがー)カワラ、マタネマシズの三兄弟妹がここを御嶽として拝み始めると作物が豊かに実るようになった。 すると、人々は彼らを慕い、周りに集り住むようになった。そして、人々が増え、石垣・登野城両村へと発展していった。」と伝えられている。
 このように石垣四カ村発祥の伝承をもつ御嶽であり、字石垣の豊年祭をはじめとする年中行事の舞台となる御嶽であることなどから石垣市の重要な文化遺産になっている。
 境内全体の構成は、鳥居、拝殿、イビ手前の木造の門、石造のイビ門、イビ内の祠(ほこら)が南北の軸線上に配置されている。 拝殿の敷地には砂が敷かれ、段差のある三つの領域に区分されている。
 拝殿(大正12年改築)は、桁行(けたゆき)約6.73m、梁間(はりま)約5.82mの木造入母屋赤瓦葺である。 拝殿の背後の敷地はさらに約70cm高くなっており、拝殿後方両脇と中央部後方に石段が設けられている。 その奥にはイビ垣を囲む栗石積みの垣があり、その中央に木造切妻造赤瓦葺門(薬医門型)がある。
 イビ垣内部には、正面と左右に門を開いた石垣で囲われた領域があり、正面の門には琉球石灰岩の大きな一枚岩がのせられている。
 御嶽全体を包み込むようにそびえ立つ樹木のなかに、県指定の天然記念物リュウウキュウチシャノキも自生している。

 「宮鳥御嶽」は、石垣村の起源とされており、ここから登野城・大川・新川の各村に分村されたという、四箇字創建の神話を伝える御嶽です。
 かつて「宮鳥御嶽」の敷地は、現・石垣小学校の全敷地を含む広大な森でしたが、明治時代に校舎建築のため現在の規模になったそうです。
文化財指定柱


「宮鳥御嶽」イビ門


御嶽内の樹木

かつてここが森であったことを示すように、今でも御嶽の周囲には大木が自生している。

15.長田御嶽(ナータオン)

「長田御嶽」
「長田御嶽」は、「ゆいロード」沿い、「スーパーホテル石垣島」の西側にあります。
両側をビルに囲まれ、まさにビルの谷間にある御嶽です。

この御嶽は、八重山の群雄割拠時代の英雄、オヤケアカハチの乱で琉球王府に協力した長田大翁主(ナータウフシュ)を祀るという説と、宮鳥御嶽の創建にかかわった3姉弟(ナタネマサシという女性、ナアタハツ、ピサガカーラという男性二人)の一人であるナアタハツを祀った宗家の御嶽であるという説があります。

16.ビッチンヤマ

「ビッチンヤマ」
「ビッチンヤマ」は、「美鎮山」とも記されます。
この御嶽は、石垣島育ちの作家「池上永一」著の「風車祭(カジマヤー)」の舞台として知られています。
伝承によれば、ビッチンヤマは明和大津波(1772年)の直後のころ、石垣村の役人が波の上に浮いていた石を持ち帰ろうとしたところ、現在の場所で急に重くなって持てなくなったことから「聖地に違いない」として祀ったのが、この御嶽の始まりだそうです。
なお、名前の由来について伝えられたものはないそうですが、丁字路に邪鬼払い目的で設置される自然石「ビッチリ」とも関係があるのではないかと言われています。
「ビッチンヤマ」

この御嶽は字石垣の18番街にあります。以前は、御嶽への入口が建物によって塞がれ分かりにくかったのですが、今は取り壊されその姿を容易に見ることができます。

17.龍宮の御嶽

「龍宮の御嶽」
「ビッチンヤマ」のすぐ近く(南側)にある御嶽ですが、由来については調査不足で不明です。もとは拝所の前に建物があったと思われますが、今では更地となっています。
「龍宮の御嶽」遠景

18.長田大翁主霊(ナータウフシュリョウ)

「長田大翁主霊」
「長田大翁主霊」は、石垣市役所から万世館通りを北(山側) へ上り、4号線との交差点の手前左側にあります。

ここには八重山の群雄割拠時代の英雄の一人、長田大翁主(ナータウフシュ)の霊が祀られています。長田大翁主は1500年のオヤケアカハチの乱で、琉球王府軍側につきアカハチを討伐し、その功績により古見首里大屋子という要職に任命されました。
この石碑は長田大翁主を称えるためのもので、彼はこの地で身を隠し神となったと云い伝えられています。

19.大石垣御嶽(ウシャギオン)

「大石垣御嶽」遠景
大石垣御嶽(シャギオン)は、大川の海星小学校の向かい(北側)にある御嶽です。
大石垣御嶽は大川の豊年祭(プール)が行われる御嶽で、毎年、ここはメインの会場となります。
「大石垣御嶽」拝殿

20.多田御嶽(タダオン)

「多田御嶽」

今から500年前の琉球王府時代、八重山最高神職の初代「大阿母」を務めた多田ブナリ(オナリ)が、首里への上国の際に遭難してしまい安南(ベトナム)に漂流、その安南から戻る際に、稲の種子や穀物の種子をもって上陸したとされる場所が真栄里の多田浜とされています。(多田御嶽は、種子を一時置いた大きな岩の下にも作物の神が宿ったとして、崇拝するようになったそうです。)
持ち帰った五穀の趣旨を広めたのが種子取祭の由来とされ、平得村の種子取祭は、毎年この御嶽で早朝、ユーニガイ(世願い)を行い、その年の豊作を祈願します。

※多田御嶽は多田浜御嶽(タダハマオン)とも呼ばれます。

「多田御嶽」

21.大阿母御嶽(ホールザーオン:オオアモオン)

「大阿母御嶽」遠景
平得村にある御嶽で、伝統行事「種子取祭」が催され、地域住民は五穀豊穣と無病息災を祈願します。種子取祭の最後に御嶽前では健脚を競う「潟原(カタバル)馬」が行なわれますが、これは苗床に稲の種を蒔いた後に、名蔵の砂浜で貝を拾い、大阿母御嶽に奉納したことが始まりだそうです。 「大阿母嶽」石柱

22.宇部御嶽(ウブオン)

「宇部御嶽」遠景
「宇部御嶽」は、平得仲本遺跡の南、産業道路沿いにあります。

その昔、ウーリ家から西宇部家に嫁いだ娘が、大浜に嫁入りした唐家の娘に分けてもらった石を信仰していたので、「宇部御嶽」と名付けられたと伝えられています。
「宇部御嶽」

23.名蔵御嶽(ナグラオン)

「名蔵御嶽」
「名蔵御嶽」は名蔵集落のはずれ、キビ畑の端にあります。
御嶽の後方には、沖縄県で最も高い於茂登岳を見ることができます。

この「名蔵御嶽」は、於茂登岳をイビとして祀っていると伝えられる御嶽です。
名蔵集落に多い台湾出身者達により、他集落の結願祭にあたる「土地公祭」が毎年旧暦8月中旬頃に開催されます。
「名蔵御嶽」拝殿遠景

24.赤イロ目宮鳥御嶽(アカイロメミヤトリオン)

「赤イロ目宮鳥御嶽」


「赤イロ目宮鳥御嶽」
の説明書き

「赤イロ目宮鳥御嶽」の説明書きより一部抜粋

 この御嶽は、別名アーラオンとも呼ばれ、群星御嶽・山川御嶽・浜崎御嶽と並んで川平四嶽の一つに数えられています。川平村の年中行事は、この四嶽を中心に行われ、中でも川平村の雨乞いはここで行われます。またこの御嶽の豊年祭では、境内の一角に祀られているピッチュル(カーラ石)と呼ばれる俵形の石を担いで境内を廻る儀式が行われます。
 「八重山島由来記(御嶽々名并由来記)によれば、御嶽の神名は御嶽名と同じで、御イベ名は「まかお大あるじ」と記述されています。また、川平村では、「牛馬による農作物の被害を避けるため、農作物保護役の野夫佐や馬夫佐へ監視させ、その結果を神司が毎月石垣村の宮鳥御嶽に行き、同御嶽の神司を通じて神に報告する習わしであった。当時の神司がその煩雑さに同情し、宮鳥御嶽への御通しとしてこの御嶽は作られた」と伝えられています。
 この御嶽は鳥居・拝殿・イビ門・イビを東西に直線的に配置し、神庭はイビ門前の広場・拝殿のある広場・下段の広場と高低差によって三段になっています。
 現在の拝殿は、昭和12年(1937年)に建てられたもので、間口が2間半(5m)、奥行き2間(4m)、赤瓦葺寄棟の屋根をおく木造平屋の建物です。拝殿には右側に祭壇が設けられ、「沐陰」の扁額が掛けられています。イビ門は長さ11m、幅80cm、高さは中央部で1.8m、両端で1mと中央部から両端に向かって低くなっています。入口は幅85cm、高さ1.8mで、暑さ15cmの平たい板状の石が乗せられています。イビは半月状で奥には高さ45cmの石積みがあり、香炉が置かれています。
 この御嶽は、川平村の年中行事には欠かせない御嶽で、八重山の民間信仰を知る上で重要なものです。また、拝殿は、御嶽の施設や伝統的な木造建築の変遷を上で重要なものです。

「赤イロ目宮鳥御嶽」遠景

 赤イロ目宮鳥御嶽は、川平集落の消防分団のロータリー前にあります。
昔、宮鳥御嶽へ通っていた氏子が分家して、川平のこの地に赤イロ目宮鳥御嶽をつくり、以降、四箇字の宮鳥御嶽の分家として存在しています。
なお、この赤イロ目宮鳥御嶽は、結願祭の会場となっている御嶽です。

25.群星御嶽(ンニブシオン)

「群星御嶽」
川平集落から底地ビーチ方面に少し行った所にある「川平貝塚」の案内板の前の道を右折し、少し坂を上った左手にあるのが「群星御嶽(ンニブシオン)」です。

群星御嶽は、川平村の発祥に深い関係があると考えられており、結願祭など村の重要な祭場となっています。
「群星御嶽」遠景

26.山川御嶽(ヤマオン)

「山川御嶽」

「川平貝塚」の案内板の向かい側(底地ビーチに向かって道路左手側)にあるのが、山川御嶽(ヤマオン)です。
山川御嶽は、この御嶽の後ろにある小高い山の神を祈る場所だったと考えられています。

「山川御嶽」遠景

 手前道路の右手側が底地ビーチ方向となります。

27.浜崎御嶽(キファオン)

「浜崎御嶽」
航海の安全を祈願する拝所として、「川平観音堂」とともに、今も多くの人びとの信仰の場となっています。
「浜崎御嶽」は、「赤イロ目宮鳥御嶽」、「群星御嶽」、「山川御嶽」と並んで川平四御嶽の一つで、地区の3大行事である豊年祭・結願祭・節祭が行なわれます。
「浜崎御嶽」遠景

 浜崎御嶽は、川平の観光船乗場のそば(海辺)にあります。

28.崎原御嶽(サキバルオン)

「崎原御嶽」
大浜地区で最も海岸に近い所にあるのが崎原御嶽です。
元々は、崎原村の御嶽として祀られたものです。
この崎原御嶽には、昼捲伊(ひるまきい)・幸地玉金(こうちたまがね)という兄弟が鋤・鍬・鎌などの農具を手に入れるため船出し、坊之津(鹿児島県)でそれを手に入れた後に故郷に戻る際、白髪の老人から帰路を導く箱をもらったという伝説が残されています。
八重山で唯一の鉄器伝来の伝説をもつ御嶽です。
「崎原御嶽」遠景

29.火の神御嶽(ピィナカンオン)

「火の神御嶽」
「崎原御嶽」の西側(海岸側から数えて2番目)にある御嶽です。
村番所の火神を御嶽にしたものと言われています。

30.大石御嶽(ウイヌオン)

「大石御嶽」
「火の神御嶽」の西側(海岸側から数えて3番目)にある御嶽です。
1771年八重山を襲った明和大津波後に、壊滅状態にあった石垣島・大浜集落を復興させるため、波照間島・「長石村」(*)の住民の大半が強制移住させられました。
大浜の「大石御嶽」は、その移住させられた村人が、故郷・波照間島の「大石御嶽」に因んで名付けた御嶽とされています。
(*) 「長石村」は、住民の大半が強制移住させられたかわりに前集落やシムス村などからの移住により、現在の「名石集落」として再興したと伝えられています。
「大石御嶽」遠景

31.黒石御嶽(クルセオン)

「黒石御嶽」
「大石御嶽」の西側(海岸側から数えて4番目:最も西側)にある御嶽です。
大浜の「黒石御嶽」は、黒石村の御嶽として祀られたものです。
「黒石御嶽」遠景

32.船着御嶽(フナツキィオン)

「船着御嶽」
市内から国道370号線を北上し大浜集落を過ぎた所で、海側に鮮やかな朱色をした鳥居が目に入りますが、これが船着御嶽(舟御嶽(フナオン))です。
この御嶽は、潤水御嶽(ミジィオン)より分神して祀ったとも伝えられています。もとは船着場で、航海の安全を祈願した所のようです。
「船着御嶽」拝殿

33.山崎御嶽(ハマシキィオン)

「山崎御嶽」
国道370号線沿いの、「赤馬公園(馬見坂)」の道路を隔てた向かい側にある御嶽です。鬱蒼とした森の中にあります。
こちらも明和の大津波で、元の御嶽は流出したそうですが、詳細の由来については調査不足で不明です。
「山崎御嶽」遠景

34.外本御嶽(ナカヌオン)

「外本御嶽」
国道370号線沿いの宮良集落から海側(東側)に下ったところにある御嶽です。
すぐ傍には、「アダドゥーナー」と呼ばれる下り井戸があります。
明和の大津波で、元の御嶽は流出したそうですが、詳細の由来については調査不足で不明です。
「外本御嶽」の碑

35.嘉手刈御嶽(カチガラオン)

「嘉手刈御嶽」


白保集落のほぼ中心に位置し、真謝井戸の前にある御嶽です。
石垣島の中でも農業の盛んな白保ですが、豊作を祈る「豊年祭(プーリィ)[*]」が行われる場所の一つとして有名な御嶽です。
この豊年祭でのムラプールは嘉手苅御獄を中心に行われ、中でも白保独自の伝統行事「稲の一生」では、稲作における過程が毎年異なった演出で演じられます。

「嘉手刈御嶽」は、元々は嘉手刈原から白保にムラが移動した際に、故地を忘れないように故地に因んだ名称がつけられた御嶽です。

[*] 豊年祭(プーリィ)は「オンプール」と「ムラプール」に分かれています。
初日には神司(カンツカサ)が取り仕切る「オンプール」が行われ、海や山で捕れた自然の恵みや田畑で収穫した作物を供え、その年の収穫に感謝を捧げます。
2日目には村人総出で「ムラプール」が行われ、来年の五穀豊穣を祈願する神事が取り行われます。旗頭の奉納、奉納舞踊、ミルク(豊作神)行列、綱引きなどの様々な奉納が行なわれます。
「真謝井戸」の碑

「真謝井戸」

36.オーセ

「オーセ」
「オーセ」は、「白保サンゴ村」の北側、道をはさんだ向かい側にあります。
「オーセ」とは、かつて琉球王府の時代、人頭税を徴収するための役所(番所)が置かれていた場所です。その後、火の神などの神々を祭る場所となり、現在も白保村の様々な行事で人々が集る場所になっています。
その一つとして、稲の苗が無事に育つことを祈願する「種子取祭(たねどりさい)」があります。この祭りでは、国道390号(白保郵便局前)からオーセ前に抜ける「ンマガミチ」と呼ばれる道で邪気払いの意を込めた競馬「カタバリ」が行われます。

37.多原御嶽(ターバルオン)

「多原御嶽」
白保集落の1番外れ(集落の北側)にある「多原御嶽」は、白保にある4つの御嶽の中では、最も規模は小さいものの白保で一番歴史のある御嶽です。波照間御嶽のすぐ横、東側にあります。

白保集落の豊年祭・オン(御嶽)プールの行なわれる4ケ所の御嶽の一つで、五穀豊穣への感謝と来夏世の豊作を祈願します。
「多原御嶽」遠景

38.波照間御嶽(アスクオン)

「波照間御嶽」
「波照間御嶽」は、1771年に起きた「明和の大津波」で壊滅した白保集落に、琉球王府の命令により波照間島から強制移住させられた島民が、郷里・冨嘉集落の阿底御嶽の神を分けて祀ったものとして伝えられています。

白保集落の豊年祭・オン(御嶽)プールの行なわれる4ケ所の御嶽の一つです。
「波照間御嶽」遠景

39.真謝御嶽(マジャオン)

「真謝御嶽」
「真謝御嶽」は、白保集落の豊年祭・オン(御嶽)プールの行なわれる4ケ所の御嶽の一つです。

「真謝御嶽」は、明和の津波のあと白保に赴任した馬真謝(真謝井戸を掘らせた人)が祀られているという言い伝えがあります。しかしながら、古文書によると真謝御嶽や真謝井戸は、明和の大津波よりもずっと以前からあるとのことで、この説はどうも間違いのようです。
「真謝御嶽」

40.トイの御嶽

「トイの御嶽」
「トイの御嶽」は「オーセ」の北側にある御嶽ですが、由来については調査不足で不明です。
この「トイの御嶽」には、拝所の前に通常ある鳥居は設けられていません。
「トイの御嶽」のイビ

41.旧盛山村跡の御嶽

「旧盛山村跡の御嶽」

同 説明標柱
旧盛山村跡の御嶽」の説明標柱より一部抜粋

 盛山村は1771年に八重山諸島を襲った明和大津波の後、竹富島から石垣島南西端の富崎に移住して出来た富崎村の人々が、1785年に桃里村の属地であった盛山に再移住して創建された村である。御嶽とは人々の健康や地域の繁栄などを祈願する聖地のことで、盛山村の人々が信仰した御嶽は、出身地である竹富島の御嶽の神を勧請したとされる。
 盛山村創建時の人口記録はないが、風土病やマラリヤや伝染病などにより、明治6(1873)年には戸数9戸、人口17人にまで減少している。明治10(1877)年には、白保・宮良・大浜の3村から23人を補充し、村の維持を図ったが人口減少は止まず、大正6(1917)年には集落が廃された。
 この御嶽は、かつてこの地にあった盛山村の歴史を物語る貴重な史跡である。

The residents of the Fusaki village, who had originally migrated from Taketomi Island to the southwest Fusaki of Ishigaki, moved to Moriyama and created the Moriyama village in 1785 after the Giant Tsunami of Meiwa struck in 1771. It is said that the enshrined god of Moriyama village's On (sacred praying site) is a God from Taketomi
Island. The population of the Moriyama village gradually decreased due to a local malaria epidemic, and the village was abandoned in 1917.
「旧盛山村跡の御嶽」

この御嶽は空港の駐車場から出てすぐのところにあります。

42.半嵩御嶽(ハンダキオン)

「半嵩御嶽」
「半嵩御嶽」は、伊原間公民館の北側にある御嶽です。

18世紀はじめに桴海村から別れた人々が金武岳北の半嵩と呼ばれた場所に、「半嵩村」を作ったところがルーツのようです。
「半嵩御嶽」

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