石垣島の御嶽(市街地) 更新 2016.04.09
御嶽は神聖な場所なので、むやみに立ち入らないでください。(特に男性の立ち入りは制限されています。)
多くの御嶽の入口には内地の神社と同じように鳥居が建てられていますが、御嶽に於いてその意味は全く異なるものであることを理解しておいて下さい。 |
※今回は、No.18.25の追加を行いました。
石垣島は古くから八重山地域の中心地であり、また多くの歴史を有する地でもあったことから数多くの御嶽があります。 特に古くからある集落(村)には著名な御嶽があります。
各御嶽の紹介
No. |
名 称 |
場 所 |
1. |
美崎御嶽(ミシャギオン)* |
登野城 |
3. |
ユーヌ火之神 |
登野城 |
5. |
船着御嶽(フナツキィオン) |
登野城 |
7. |
キツィパカ御嶽(キツィパカオン)* |
登野城 |
9. |
米為御嶽(イヤナスオン)* |
登野城 |
11. |
アマスイ御嶽* |
登野城 |
13. |
船浦御嶽(フノーラオン)* |
登野城 |
15. |
長崎御嶽(ナガサキオン)* |
新川 |
17. |
本宮良の主の御嶽* |
新川 |
19. |
長田大翁主霊(ナータウフシュリョウ) |
石垣 |
21. |
長田御嶽(ナータオン)* |
石垣 |
23. |
龍宮の御嶽 |
石垣 |
25. |
基斗御嶽(キドゥオン)*
|
大川 |
27. |
安居御嶽(アングンオン)* |
真栄里 |
29. |
大阿母御嶽(ホールザーオン:オオアモオン)* |
平得 |
31. |
トウメスカ御嶽* |
平得 |
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No. |
名 称 |
場 所 |
2. |
蔵元の火の神(クラヌビィナカン)* |
登野城 |
4. |
天川御嶽(アーマーオン)* |
登野城 |
6. |
糸盛御嶽(イチュムリオン)* |
登野城 |
8. |
糸数御嶽(イトゥカジィオン)* |
登野城 |
10. |
小波本御嶽(クバントゥオン)* |
登野城 |
12. |
真泊嶽(マドゥマリィオン)* |
登野城 |
14. |
真乙姥御嶽(マイツバーオン)* |
新川 |
16. |
大嵩屋の御嶽(フータキヤーヌオン)* |
新川 |
18. |
唐屋の御嶽(トーヤーヌオン)* |
新川 |
20. |
宮鳥御嶽(メートゥルオン)* |
石垣 |
22. |
ビッチンヤマ* |
石垣 |
24. |
大石垣御嶽(ウシャギオン)* |
大川 |
26. |
多田御嶽(タダオン)* |
真栄里 |
28. |
地城御嶽(ギシュクオン)* |
平得 |
30. |
宇部御嶽(ウブオン)* |
平得 |
32. |
藍盛御嶽(アイムリオン)・
迎里御嶽(ンカイザトゥオン)* |
平得 |
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地図
1.美崎御嶽(ミシャギオン)
「美崎御嶽」遠景

「美崎御嶽」の説明書き
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「美崎御嶽」の説明書きより一部抜粋
県指定記念物 史跡
県指定有形文化財 建築物 美崎御嶽
尚真王のころ、石垣市登野城の美崎山に創建された航海安全を祈願するための御嶽である。神名を大美崎トウハ、御イベ名は浦掛ノ神ガナシという。
御嶽の由来については、遠弥計赤蜂の乱(AD1500年)の時に首里王府派遣の兵船の那覇港への安着を祈願して、神女の真乙姥が籠もったところといわれている。
御嶽の周囲は石垣がめぐり、中央部には拝殿にあたる拱式(アーチ)の石門がある。石門の構造は、屋根石を架し、棟中央に火炎宝珠を乗せている。規模こそ小さいが首里王城下の園比屋武御嶽に類似するといわれている。この拝殿を「イビの前」と称し、その奥には石や岩、大木等があり、そこをイビと称している。
この御嶽は、王府より派遣された役人の離着任時、農耕儀礼などに高官や大阿母によって拝され、公儀であった。現在は字大川の村拝所として住民の信仰地となっている。昭和31年2月、県指定有形文化財(建造物)としても指定され、史跡と建造物の二重指定をうけている。
※ |
「美崎御嶽」は、オヤケアカハチの乱を制圧した王府軍が海路を無事で首里に帰還できるよう、真乙姥(マイツバ)が美崎山の聖地に籠もって祈願し、その願いが叶えられたことから創建された、航海安全祈願の御嶽です。
断食祈願で衰弱した真乙姥を助けたのが平得の多田屋遠那理で、これを機に八重山で初めて大阿母(多田屋)、永良比金(真乙姥)の神職が置かれるようになりました。
以降、御嶽は現地役人の旅立ちや王府役人の離就任、高官が参加しての農耕儀礼などを行うようになり、代々、八重山の蔵元が管理するクギィオン(公儀御嶽)として尊崇を集めてきました。 |
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「美崎御嶽」拝殿

「美崎御嶽」のイビ石門
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2.蔵元の火の神(クラヌビィナカン)
「蔵元の火の神」 |
火の神はその昔、八重山島守護の任務を託された今帰仁の神・オタイカネが降臨、蔵元の神として崇拝されるようになり、大阿母が祭祀を執り行ったとされています。
「蔵元の火の神」は1524年に「西塘」が竹富島に蔵元政庁を創設した際に建立したと伝えられ、琉球王国の安定、八重山や蔵元政治の守護を祈るものでした。その後、石垣島に蔵元が移設されるのに併せて移されました。その蔵元は、現在の八重山支庁・八重山博物館を含む一帯にありました。
戦後の1953年に土地区画整理で美崎御嶽の境内に移転されています。
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3.ユーヌ火之神
「ユーヌ火之神」
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美崎御嶽の鳥居を入った左手(北側)にある御嶽です。
安全、平和、健康、繁栄などを祈願した「火之神」が祀られていて、各家庭に分けられ、かまどに祀ったのだそうです。 |
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4.天川御嶽(アーマーオン)
「天川御嶽」

「天川御嶽」遠景
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「天川御嶽」の説明書きより一部抜粋
天川(アーマー)とは、この地一帯の称で、古くは天川原(アーマーバル)と呼ばれていた。また、御嶽(オン)とは、村人の健康や村の繁栄などを祈願する聖地である。 天川御嶽の歴史は古く、「八重山島由来記」(1705年頃)にも記されている。 登野城(トゥヌスク)村の伝承では、新城家(アーマーヤー)の祖先で霊験(セジ)高く篤農家でもあった野佐真(ヌサマ)が天川原の霊石(イビ)を信仰していたことから毎年豊作・豊漁に恵まれ、そのため村人たちにもその霊石を尊信するようになり、豊作・豊漁の神として信仰するようになった、といわれている。 首里王府時代には、沖縄本島への貢納船に乗り込む役人の航海安全を祈願する七嶽(ナナオン)(美崎[ミシャギ]・宮鳥[メートゥル]・長崎[ナースク]・天川[アーマー]・糸数[イトゥカズ]・名蔵[ノーラ]・崎枝[サキダ])の一つとされていた。
現在でも折々の祈願のほか、旧暦六月には豊作への感謝と来る年の豊穣を祈る豊年祭が古式豊かに執り行なわれている。
「天川御嶽」の拝殿は1874年(明治7年)に茅ぶきで建立されて以来、3度改築されましたが、最後に改築された1963年から45年以上が経過し老朽化が進んだため、2010年6月に実に135年ぶりに建替えられました。なお、旧拝殿の解体工事は重機を使わず、素手で解体されたそうです。 |
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改築前の「天川御嶽」

【2009年11月撮影】
「天川御嶽」は、登野城の那覇地方裁判所・検察庁の東側にあります。 |
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5.船着御嶽(フナツキィオン)
「船着御嶽」

「船着御嶽」の鳥居
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登野城漁港のすぐ近くにある御嶽で、御嶽の向かいには「サザンゲートブリッジ」があります。
かつては、宮良湾(西側)の入り江が船着御嶽のあるフナスク(船着き場)という地名のところまで入り込んでいて、ここが海上交易の拠点となっていたようです。
登野城集落にとっては非常に重要な場所であり、アガリグヤの糸満系漁民たちの精神的支えともなっている御嶽です。ユッカヌヒー(旧5月4日)には爬龍船が祭られ、海の恵みに感謝するとともに豊漁と航海安全が祈願されます。
船着御嶽は、戦後しばらくまで木々が茂り御嶽としての形態は全く無かったようです。その後、同地は明和の大津波で没した世にも稀な霊力の持ち主・新城武那津の祈願所と判明し、1950(昭和25)年に御嶽が再興されました。1993(平成5)年、長い年月で老朽化した拝殿が撤去され、鳥居や拝殿が新築され今日に至っています。 |
「船着御嶽」遠景
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6.糸盛御嶽(イチュムリオン)
「糸盛御嶽」
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登野城の美崎御嶽近くの、国道390号線の北側(石垣SS登野城給油所南東)にある御嶽です。建物の間に挟まれ、入口からかなり奥に入った所にある御嶽のため、なかなか分かりづらいです。
この御嶽は牛馬繁栄の神を祀っています。昔、付近一帯はうっそうと茂る密林で、イチュムリと呼ばれていました。そこにはパームイと呼ばれる霊威高い老婦人が住んでいて、不思議なことにその人の信仰しているイビを拝むと牧場の牛馬がよく繁栄したそうです。このためイビには多くの人々が訪れ、牛馬繁栄の御嶽として信仰されるようになったそうです。
拝所内にはクワノハエノキの大木があり、かつての森の面影が僅かながら残っています。
なお、御嶽前には次のように記されています。
いちむるお嶽
平成3年10月22日
(旧9月15日)竣工
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「糸盛御嶽」
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7.キツィパカ御嶽(キツィパカオン)
「キツィパカ御嶽」
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桟橋通りの、サーターアンダギーで有名な「さよこの店」と2号線との間にある小さな御嶽で、キツィパカオン(岸若御嶽)と呼ばれています。
キツィパカ住民の健康・豊年・豊作・航海安全などを、他の御嶽に向って通し祈願する「願所」が長い間にオン(御嶽)と呼ばれるようになったそうです。
御嶽内にはアカテツやクワノハエノキの巨木が生えています。 |
「キツィパカ御嶽」
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8.糸数御嶽(イトゥカジィオン)
「糸数御嶽」
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登野城は石垣島内でも早くから集落が形成された地域で、そのため多くの御嶽が点在しています。
糸数御嶽のある場所は、登野城村の東端に位置し、かつてはここより東には家はなかったそうです。国道370号線より南は海岸線で八重山の離島や沖縄本島を行き来する船着き場があり、ここは航海の安全を祈った場所でした。
糸数御嶽の創建者は黒島出身の舟道石戸とされています。舟道は1732年、野底への強制移住を命じられますが、念仏教や葬札などの知識にたけていたため移住を免じられ、大川村の高台に住んでいました。僧侶の代わりに葬儀を執り行っていた功績が認められ、親雲上の位を授けられました。その後、舟道は「辻野」姓を名乗るようになり、公用で王府に向うたびに家族が糸数原で祈り、無事に往復できたことから航海安全の霊所とされ、人々も信仰するようになったそうです。 |
「糸数御嶽」遠景

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9.米為御嶽(イヤナスオン・イヤナシィオン)
「米為御嶽」イビ門

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「米為御嶽」の説明標柱より一部抜粋
米為御嶽は、八重山にはじめて稲作を伝えたとされる兄タルファイ、妹マルファイのうちマルファイの墓とされ、のちの人々が稲作を伝えた神として尊崇し、御嶽として信仰されるようになったといわれる。御嶽とは人々の健康や地域の繁栄などを祈願する聖地のことで、米為御嶽は字登野城の御嶽として信仰されている。また、タルファイの墓も同様に尊崇され、大石垣御嶽(ウシャギオン)として字大川の人々に信仰されている。
伝承によれば、タルファイ・マルファイは安南(現在のベトナム)のアレシンという所から稲種子を持って来島し、登野城の小波本原(クバントゥバル)に住居し、水田を開いて島民に稲作を指導したとされる。登野城の種子取祭や豊年祭などの農耕儀礼は、この御嶽と兄妹の住居跡とされる小波本御嶽を中心に、現在でも古式豊かに執り行なわれている。
Tai phi and Mal phi are two siblings who were the first to introduce rice
growing to the Yaeyama region. It is said that the Iyanasu On (sacred praying
site) is grave of Mal phi that became worshiped by the future generations.
The grave of the Tal Phi is similarly worshiped by the local people as
the Ushagi On.
八重山における稲作の始まりに関わる御嶽です。御嶽名の「イヤナス(イヤナシィ)」は「米ニ為ス(シ)」とされていますが、稲の発祥を意味しているのか、単なる当て字なのかは不明です。登野城の農耕儀礼の中心で、水元の神でもあります。 |
「米為御嶽」遠景

この御嶽は、石垣市営野球場(運動公園)の西側にあります。 |
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10.小波本御嶽(クバントゥオン)
「小波本御嶽」
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この御嶽は、石垣市営野球場(運動公園)の西側にあります。幅1mもない小路を通って御嶽に行きます。
ここは、八重山に初めて稲作を伝えたとされる安南国(現在のベトナム)出身のタルファイ、マルファイ兄妹の住居跡と言われます。
元御嶽(ムトゥオン)や大御嶽(ウフオン)などと言う呼び名がある貴重な御嶽ですが、鳥居や拝殿のような構造物はありません。イビ門の石垣がまばらに残っている程度で、周囲は大きな木々に取り囲まれています。(御嶽全体が森林化しています。)
妹マルファイの墓は米為御嶽、兄タルファイの墓は大川の大石垣御嶽(ウシャギオン)とされ、いずれも重要な農耕儀礼の地となっています。 |
「小波本御嶽」への小路
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11.アマスイ御嶽
「アマスイ御嶽」

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「アマスイ御嶽」は登野城町内にある御嶽です。
豊川家所蔵の登野城村の古地図に描かれた3ケ所の「願所」の一つで、その「願所」がいつしか御嶽になったようです。水の神が祀られていました。
その昔、クバガサをかぶりミノ笠を着けた不思議な人物(男性)が天から降りてきましたが、亡くなったためこの地に葬りました。「願所」はその人物の墓とのことです。その後、雨乞い等で拝む人が出てきて、次第に御嶽と呼ばれるようになったようです。しかし、戦後放置され、祭祀も絶えて久しいようです。 |
同 遠景
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12.真泊嶽(マドゥマリィオン)
「真泊嶽」
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琉球王府から命令を受け、三司官(国務大臣)や御検視官、在番たちが毎年八重山にやって来ていました。彼らは、公用船「馬艦船(まーらんぶに)」に乗って来て、今の登野城漁港の先辺りにあった美崎泊に錨を下ろし、そこから小伝馬船に乗り移って上陸していました。その上陸地点の直ぐ傍にあったのが真泊嶽で(古くは美崎真泊とよばれていました)、航海安全の神が祭られていました。
1820年、首里から公務の帰途、台風に遭遇した松茂氏第8世宮良頭当演が漂流中、真泊御嶽に祈願して無事に帰島しました。1902年、附近の道路工事に支障が出たため隣接の美崎御嶽の境内に奉還されました。その後、1957年には有志の浄財で旧跡(現在の場所)に再奉還されました。そのため真泊御嶽は2ケ所に別れて鎮座しています。
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「真泊嶽」側面より

この御嶽は、大濱信泉記念館の裏手(東側)にあります。 |
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13.船浦御嶽(フノーラオン)
「船浦嶽嶽」
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登野城のサザン歯科クリニックの東側にあります。1677年に石垣親雲上(ハンナー主)が私費を投じて新式の造船所(スラ)を建築し、蔵元の公用に供したとされます。
フノーラとは造船所の意味で、御嶽の由来については記録が残っていないため不明ですが、ハンナー主が建てたスラと因果関係があったものと推測されます。
龍宮の神を祀っていて、御嶽の拝殿と神殿は1934年に建立されましたが、現在は残っていません。
なお、黒島にも同名の船浦御嶽がありますが、造船や進水式、航海安全などを祈願をする御嶽として創建されています。 |
「船浦嶽嶽」遠景

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14.真乙姥御嶽(マイツバーオン)
「真乙姥御嶽」

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1500年、オヤケアカハチの乱で、琉球王府・中山軍に協力した八重山の群雄割拠時代の英雄、長田大翁主(ナータウフシュ)の妹・真乙姥(マイツバ)という女性を祀った御嶽です。
オヤケアカハチと敵対した長田大主には、真乙姥と古乙姥(クイツバ)の二人の妹がいましたが、長田大翁主は妹の古乙姥を今で言う政略結婚という形でオヤケアカハチの元に嫁がせ、隙を見てオヤケアカハチを暗殺するように指示しました。 しかし、古乙姥はオヤケアカハチを愛してしまい、兄の企みには加担せず、結果としてオヤケアカハチとともに王府軍に殺されてしまいました。
一方、長田大翁主のもう一人の妹、真乙姥は兄に従い王府軍のために働きました。彼女はオヤケアカハチの乱鎮定後、王府軍が首里まで無事帰還できるよう、美崎山へこもって祈願しました。これが叶ったということから、平得村の多田屋遠那理(ターダヤブナリ(オナリ))とともに尚真王から初代永良比金(イランビンガニ)という神職を授けられました。 その後、真乙姥は人々の尊敬を集め神職としての役目を全うし、没後は立派な墓が作られ供養されました。そして、この墓地は真乙姥御嶽として多くの人々から崇敬されるようになりました。但し、御嶽になった年代は不明です。
この真乙姥御嶽では、毎年旧暦の6月に四箇字(石垣・登野城・大川・新川)の盛大な豊年祭(ムラプール)が執り行われています。 |
オオバアコウの木

拝殿斜め前には、オオバアコウの大木(推定樹齢:200〜300年)があります。 |
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「真乙姥井戸」
(マイツバカー)

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「真乙姥御嶽」の東側の道路を少し上ると「真乙姥井戸(マイツバカー)」があります。 石垣中学校の正門前になりますが、正に道(十字路)のど真ん中にあります。
丸い石造りの井戸は、既に蓋がされ使用されている様子はありませんが、桶を吊り下げていたと思われる金具などが昔のまま残されています。
この井戸は、真乙姥御嶽を深く信仰していた宇根通事(ウーニトゥージ)という地元の船頭が掘ったとされ、今でもこの井戸の水は神事に使われているそうです。
井戸の正面には次のように記されています。
昭和五十七年
真乙姥井戸
宇根弘 |
「真乙姥井戸」

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15.長崎御嶽(ナガサキオン)
「長崎御嶽」
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石垣島四ヶ字の豊年祭・オンプールにおいて、字新川(集落)の会場となるのが「長崎御嶽」です。オンプールでは豊作の感謝を祈願します。
昔、長崎家(ナーシィキィヤー)の祖が森で怪しい火の明滅に気づき、訪ねてみると夫婦石があったそうです。霊石に違いないと考えた祖は、それ以来お参りするようになります。
ある凶作の年、なぜか長崎家の作物だけは豊かに実ったそうです。そこで村人たちは社を建て信仰を深めたのが、この「長崎御嶽」の由来とされています。 |
「長崎御嶽」のイビ
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16.大嵩屋の御嶽(フータキヤーヌオン)
「大嵩屋の御嶽」
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桃林寺からざっと500m西に行った沖ハム八重山営業所の隣にある木々の中にあるのが大嵩屋の御嶽で、大嵩家一族の氏御嶽(ウジィオン)です。
大きなウラジロエノキ(コーブグ木)の根元に香炉が一つ置かれていますが、一族の繁栄と健康、豊作祈願などが行なわれているそうです。
御嶽の由来は、二百数十年前に大嵩家の兄弟が唐に旅したとき、妹がここで旅の安全を祈願したところ、無事に帰島することができたことから、一族の御嶽として拝むことになったそうです。 |
「大嵩屋の御嶽」の香炉
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17.本宮良の主の御嶽
「本宮良の主の御嶽」
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新川の通称市道2号線沿い、宮城ガーデンの向いにあります。俗称は「オンナー」。小さな御嶽という意味の名が付けられています。
1624年のキリシタン事件で処刑された元宮良頭・石垣永将を祀っており、御嶽の位置は、石垣永将が火あぶりの極刑にされた場所と伝えられています。石垣の死を悼む親族、嘉善姓関係者が供養を続け、御嶽になったものと考えられます。祠には十(クルス)の印が付けられています。 |
「本宮良の主の御嶽」
の遠景

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18.唐屋の御嶽(トーヤーヌオン)
「唐屋の御嶽」
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「唐屋の御嶽」は、新川の唐真家(トーヤー)一族の祖先を祀っている氏御嶽です。新川の「かんな歯科クリニック」の南隣に「唐真家報祖之碑」が建てられています。
はるか昔に、唐の国から2人の兄弟が石垣島に漂着し、住民に助けられ、新川村に住み着きました。兄弟は流刑処分を受けたと言い、イノシシを生け捕りにしたりするなどして村人を驚かせました。棒術の名人でもあり、崎枝海岸で南方系の遭難者を救助、これが新川の伝統芸能「パイヌシマカンター棒」のきっかけになったとされています。 |
「唐屋の御嶽」の遠景
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19.長田大翁主霊(ナータウフシュリョウ)
「長田大翁主霊」
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「長田大翁主霊」は、石垣市役所から万世館通りを北(山側) へ上り、4号線との交差点の手前左側にあります。
ここには八重山の群雄割拠時代の英雄の一人、長田大翁主(ナータウフシュ)の霊が祀られています。長田大翁主は1500年のオヤケアカハチの乱で、琉球王府軍側につきアカハチを討伐し、その功績により古見首里大屋子という要職に任命されました。
この石碑は長田大翁主を称えるためのもので、彼はこの地で身を隠し神となったと云い伝えられています。 |
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20.宮鳥御嶽(メートゥルオン)
「宮鳥御嶽」遠景

「宮鳥御嶽」拝殿

「宮鳥御嶽」の説明書き
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「宮鳥御嶽」の説明書きより一部抜粋
この御嶽は、文献上は最初に「八重山嶋由来記(やえやまじまゆらいき)」(1705年)に記載されており、「琉球國由来記(りゅうきゅうこくゆらいき)」(1713年)には「宮屋鳥御嶽」という表記もある。 方言では「メートゥルオン」などと呼ばれている。 神名は「ヲレハナ」、御イベ名は「豊見タトライ」とある。
上の二つの由来記によれば、「石城山(いしすくやま)に住んでいたナアタハツ、平川(ひさがー)カワラ、マタネマシズの三兄弟妹がここを御嶽として拝み始めると作物が豊かに実るようになった。 すると、人々は彼らを慕い、周りに集り住むようになった。そして、人々が増え、石垣・登野城両村へと発展していった。」と伝えられている。
このように石垣四カ村発祥の伝承をもつ御嶽であり、字石垣の豊年祭をはじめとする年中行事の舞台となる御嶽であることなどから石垣市の重要な文化遺産になっている。
境内全体の構成は、鳥居、拝殿、イビ手前の木造の門、石造のイビ門、イビ内の祠(ほこら)が南北の軸線上に配置されている。 拝殿の敷地には砂が敷かれ、段差のある三つの領域に区分されている。
拝殿(大正12年改築)は、桁行(けたゆき)約6.73m、梁間(はりま)約5.82mの木造入母屋赤瓦葺である。 拝殿の背後の敷地はさらに約70cm高くなっており、拝殿後方両脇と中央部後方に石段が設けられている。 その奥にはイビ垣を囲む栗石積みの垣があり、その中央に木造切妻造赤瓦葺門(薬医門型)がある。
イビ垣内部には、正面と左右に門を開いた石垣で囲われた領域があり、正面の門には琉球石灰岩の大きな一枚岩がのせられている。
御嶽全体を包み込むようにそびえ立つ樹木のなかに、県指定の天然記念物リュウウキュウチシャノキも自生している。
※ |
「宮鳥御嶽」は、石垣村の起源とされており、ここから登野城・大川・新川の各村に分村されたという、四箇字創建の神話を伝える御嶽です。
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かつて「宮鳥御嶽」の敷地は、現・石垣小学校の全敷地を含む広大な森でしたが、明治時代に校舎建築のため現在の規模になったそうです。 |
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文化財指定柱

「宮鳥御嶽」イビ門

御嶽内の樹木

かつてここが森であったことを示すように、今でも御嶽の周囲には大木が自生しています。 |
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21.長田御嶽(ナータオン)
「長田御嶽」
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「長田御嶽」は、「ゆいロード」沿い、「スーパーホテル石垣島」の西側にあります。
両側をビルに囲まれ、まさにビルの谷間にある御嶽です。かつてここは大木に囲まれ、東ヌ山(アンヌヤマ)とも呼ばれていたそうです。
この御嶽は、八重山の群雄割拠時代の英雄、オヤケアカハチの乱で琉球王府に協力した波照間島出身の長田大翁主(ナータウフシュ)信保を祀る長栄姓一門の氏御嶽とされ、かつては祈願所で、のちに一門が御嶽として拝むようになったとされています。長田大翁主は1517年に62歳で死去し、ツカラ岳南の山座利に墓があります。境内の石碑は1956年に長栄姓一門が改築建立しました。
一方で、宮鳥御嶽の創建にかかわった3姉弟(ナタネマサシという女性、ナアタハツ、ピサガカーラという男性二人)の一人であるナアタハツを祀った宗家の御嶽であるという説もあります。 |
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22.ビッチンヤマ
「ビッチンヤマ」
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「ビッチンヤマ」は、「美鎮山」とも記されます。
この御嶽は、石垣島育ちの作家「池上永一」著の「風車祭(カジマヤー)」の舞台として知られています。 伝承によれば、ビッチンヤマは明和大津波(1772年)の直後のころ、石垣村の役人が波の上に浮いていた石を持ち帰ろうとしたところ、現在の場所で急に重くなって持てなくなったことから「聖地に違いない」として祀ったのが、この御嶽の始まりだそうです。
なお、名前の由来について伝えられたものはないそうですが、丁字路に邪鬼払い目的で設置される自然石「ビッチリ」とも関係があるのではないかと言われています。 |
「ビッチンヤマ」

この御嶽は字石垣の18番街の角地にあります。以前は、御嶽への入口が建物によって塞がれ分かりにくかったのですが、今は取り壊されその姿を容易に見ることができます。 |
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23.龍宮の御嶽
「龍宮の御嶽」
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「ビッチンヤマ」のすぐ近く(南側)にある御嶽ですが、由来については調査不足で不明です。もとは拝所の前に建物があったと思われますが、今では更地となっています。
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「龍宮の御嶽」遠景
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24.大石垣御嶽(ウシャギオン)
「大石垣御嶽」遠景
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大石垣御嶽(シャギオン)は、大川の海星小学校の向かい(北側)にある御嶽です。
大石垣御嶽は大川の豊年祭(プール)が行われる御嶽で、毎年、ここはメインの会場となります。
八重山に初めて稲作を伝えたとされる安南国(現在のベトナム)出身のタルファイ、マルファイ兄妹の、兄タルファイの墓が、のちに御嶽として信仰されるようになりました。
もともとは石垣村の御嶽だったと伝えられています。
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「大石垣御嶽」拝殿
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25.基斗御嶽(キドゥオン)
「基斗御嶽」遠景
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基斗御嶽(キドゥオン)は、大川の八重山病院の北西部約500mの畑の中にあります。ここは大川村の元牛ヌ御嶽の場所とも言われます。
基斗御嶽は1771年の明和の大津波で流されたそうですが、戦後、この場所からイビと香炉が発見され、関係者により御嶽が再興されました。御嶽の名称は、神の霊示に基づくものだそうです。
また、拝殿奥にある琉球石灰岩のイビや香炉は出土当時のものだそうです。 |
「基斗御嶽」鳥居と拝殿
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26.多田御嶽(タダオン)
「多田御嶽」
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今から500年前の琉球王府時代、八重山最高神職の初代「大阿母」を務めた多田屋遠那理(タダヤブナリ(オナリ))が、首里への上国の際に(逆に戻る時という説もあります)遭難してしまい安南(現在のベトナム)に漂流、その安南から戻る際に、稲の種子や穀物の種子をもって上陸したとされる場所が真栄里の多田浜とされています。(多田御嶽は、種子を一時置いた大きな岩の下にも作物の神が宿ったとして、崇拝するようになったそうです。)(またこの御嶽は、安南から作物栽培の指導のために同行した人「神」を祀ったところという説もあります。)
持ち帰った五穀の趣旨を広めたのが種子取祭の由来とされ、平得村の種子取祭は、毎年この御嶽で早朝、ユーニガイ(世願い)を行い、その年の豊作を祈願します。
※この御嶽は真栄里海岸に1938(昭和13)年に建立されました。
※多田御嶽は多田浜御嶽(タダハマオン)とも呼ばれます。
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「多田御嶽」 |
27.安居御嶽(アングンオン)
「安居御嶽」
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真栄里村の八重山商工高校の北西にある御嶽です。
ここで真栄里村のオンプーリィ(来夏世の豊穣と住民の無病息災を祈願する豊年祭)が行われます。そして数々の芸能が奉納される場所でもあります。
この御嶽には、平家の落人(落ち武者)伝説があります。
昔、平家の落人が住んでいて、死後その屋敷跡(安居御嶽の地)に葬られました。その後、真栄里出身の男が人食いとなり、子どもをさらって食べていました。男の妹が確認をするために、子どもと兄のいる洞窟に行ったところ、二人とも捕まってしまいました。隙を見て逃げたものの追われ、落人の墓の前にさしかかった時にデイゴの木が割れ、二人を空洞に入れて助けたと伝えられています。
なお、安居御嶽は、地元では大和ウガンとも言うそうです。 |
「安居御嶽」石柱
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28.地城御嶽(ギシュクオン)
「地城御嶽」遠景
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地城御嶽は、平得村のオンプーリィ(来夏世の五穀豊穣と住民の無病息災を祈願する豊年祭)等の行われる場所です。
石垣市浄水場の北東に位置し、石垣島で最も大きい御嶽と言われています。
地城御嶽は、琉球王府の安泰祈願や在番等の着任時にも参拝し、美崎御嶽と同様、蔵元の公事と深い関係にありました。地城御嶽には、公の御嶽・大和願い・唐願い・龍宮願いの4ケ所のイビがあります。 |
「地城御嶽」
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29.大阿母御嶽(ホールザーオン:オオアモオン)
「大阿母御嶽」遠景
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八重山初代の「大阿母」を務めた多田屋遠那理(タダヤブナリ(オナリ))の墓が御嶽となりました。ブナリは、オヤケアカハチの乱で長田大翁主の妹の真乙婆とともに王軍を応援します。祈りで衰弱した真乙婆を救い、その功績で八重山初代の「大阿母」に任命されたと伝えられています。
ブナリは、首里への上国の際に(逆に戻る時という説もあります)遭難してしまい安南(現在のベトナム)に漂流、その安南から戻る際に、稲や粟などの穀物の種子を持ち帰ったとされています。
大阿母御嶽は平得村にあり、伝統行事「種子取祭」が催され、地域住民は五穀豊穣と無病息災を祈願します。種子取祭の最後に御嶽前では健脚を競う「潟原(カタバル)馬」が行なわれますが、これは苗床に稲の種を蒔いた後に、名蔵の砂浜で貝を拾い、大阿母御嶽に奉納したことが始まりだそうです。 |
「大阿母嶽」石柱
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30.宇部御嶽(ウブオン)
「宇部御嶽」遠景
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「宇部御嶽」は、平得仲本遺跡の南、産業道路沿いにあります。
その昔、ウーリ家から西宇部家に嫁いだ娘が、大浜に嫁入りした唐家の娘に分けてもらった石を拝んだところ豊作になり、人々も拝むようになったことから、「宇部御嶽」と名付けられたと伝えられています。
一方で、ここは新本井戸を掘ったウーリ家の租に当る7人兄弟の屋敷跡という説もあります。 |
「宇部御嶽」
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31.トウメスカ御嶽
「トウメスカ御嶽」遠景
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「トウメスカ御嶽」は、平得の新本井戸・頌徳碑から北へ約100m、石垣市総合体育館駐車場の東側道路沿いにあります。
この御嶽は墓が御嶽として信仰されたものです。
墓の主は前述の井戸を掘った宇里家の祖の7人兄弟の二男だそうです。石組み墓の傍らに花崗岩がありますが、次男が名蔵から本パイ(本製の鍬)の柄で担いできたとのことです。しかしながら、現在では誰も担げる者がいないそうです。次男はそれほどの力持ちだったようです。
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「トウメスカ御嶽」
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32.藍盛御嶽(アイムリオン)・迎里御嶽(ンカイザトゥオン)
「藍盛御嶽・迎里御嶽」

御嶽の西側から
北方向の光景
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「藍盛御嶽(アイムリオン)・迎里御嶽(ンカイザトゥオン)」は、平得の「大阿母御嶽」の道路隔てた東側、日本キリスト教団平真教会の北側にあります。
藍盛御嶽と迎里御嶽が同一境内に鎮座していますが、拝殿は一つです。藍盛御嶽のイビが拝殿の北側奥に座り、迎里御嶽のイビが拝殿の西隣に座っています。藍盛御嶽は、平得村の人頭税織物染用の藍の担当者が創建したもので、迎里御嶽は平得在住の2戸の氏御嶽として創建したものです。
なぜ2つの御嶽が同一箇所にあるかというと、明治時代に両者が協議した結果だそうです。 |
「藍盛御嶽・迎里御嶽」
遠景

藍盛御嶽のイビ
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