黒島の御嶽  更新 2022.03.05

御嶽は神聖な場所なので、むやみに立ち入らないでください。(特に男性の立ち入りは制限されています。)
多くの御嶽の入口には内地の神社と同じように鳥居が建てられていますが、御嶽に於いてその意味は全く異なるものであることを理解しておいて下さい。
特に黒島では鳥居から先には決して立ち入らないようにして下さい。
(なお、以下の鳥居から先の写真は、一部島民の方に案内して頂いたものを除き、全てズームレンズを使用して撮影したものです。)

今回は、下表のNo.12・13・14の写真を追加しました。

 八重山諸島のほぼ中央にある黒島は、隆起珊瑚礁からなる典型的な「野国(ヌングン)島:山も川もない、平らで水田の全くない島」です。 このため黒島には古くから海と関わる文化があり、御嶽についてもそのほとんどが航海安全に関係したもので、海との深い繋がりを有する由来が残されています。 (黒島には造船に関する伝説も残されており、航海の始まりの島とも言われています。)

 黒島には、10カ所以上の御嶽がありますが、なかには廃村等により既に廃止されたものもあります。 なお、黒島では御獄を、「ウタキ」・「オン」ではなく「ワン」と呼んでいます。
 また、黒島には主要となる八つの御嶽があり、「八嶽」として親しまれています。 「八嶽」は、王府時代には「公儀御嶽」として信仰の中心を形成していたそうですが、場所は「二嶽」を除きほとんど海岸の近くにあるのが特徴となっています。

 なお、黒島のそれぞれの御嶽には、環境庁(?)が設置した「○○御嶽」といった看板が立てられていますが、いずれも「嶽」の字が地獄の「獄」の字と間違えられています。 (ビジターセンターの説明書きも同様ですが、今更直すのも何ですしねぇ・・・。)

 
No. 名 称 備 考
1. 阿名泊御嶽(アナドマリワン)  
2. 喜屋武御嶽(ケンワン・キャンワン) 「八嶽」
3. 仲盛御嶽(ナハムリワン) 「八嶽」
4. 北神山御嶽(ニシハメマワン・ニシカメマワン) 「八嶽」
5. 南神山御嶽(パイハメマワン・パイカメマワン) 「八嶽」
6. 比江地御嶽(ページワン)   
7. 南風保多御嶽(パイフタワン) 「八嶽」
8. 迎里御嶽(ンギシトゥワン) 「八嶽」
9. ピジリ御嶽  
10. 船浦御嶽(フノーラワン)  
11. 保海御嶽(フキワン) 「八嶽」
12. 保里御嶽(ウブワン) 「八嶽」
13. 伊見底御嶽(イミスクワン)  
14. 乾震堂 拝所 
15. 旧乾震堂 拝所

T.黒島の主要御嶽の地図

U.黒島の主要御嶽

1.阿名泊御嶽(アナドマリワン)
 
阿名泊御嶽(アナドマリワン)は、島の北東部の海岸、「阿名泊」にある御嶽です。
「八嶽」ではありませんが、航海の無事に感謝を捧げ、島間を渡航する船人の航海安全を祈る場所だったようです。
往昔、竹富島のシドゥブジ、アパレシ兄妹は島の南岸武佐志浜で三日月形の船形を発見し、これにヒントを得て初めて丸木舟を造りました。これが八重山における造船の始まりとされています。
しかしこの舟は流れて黒島ヌナ浜(東崎)に漂着し、阿名泊の海岸においてこの島の島仲なる者の手によって拾い上げられました。島仲はこれに似せて航海に耐える舟を造りました。そして黒島から竹富島に航海しました。
御嶽はシドゥブジの舟が漂着した場所に建てられ信仰されたものだそうです。
なお、御嶽そばの海岸は、石垣島からのNTTケーブルの揚陸地となっています。
 
阿名泊御嶽遠景 同 拝殿

2.喜屋武御嶽(ケンワン・キャンワン) 「八嶽」
 
喜屋武御嶽(ケンワン・キャンワン)は、東筋から東側の海岸にある御嶽です。なお、この御嶽のそばの海岸には、破損した古い桟橋が残っています。御嶽創建の由来には次の2説があるようです。

@ 宮古の役人テフヌ主(若文子:わかてくぐ)の船が公用で石垣島に向かう途中、漂流して黒島に着き、人々は厚くもてなし船の修理を終えて役人は石垣に向け出発し無事公用を済ませて安古に帰りました。  
テフヌ主の滞在中、恋仲となった島の女が船の艫綱を結びつけてあった岩石を神体として航海の無事安全を祈願してその祈りが通じて安全無事でした。この女は後に東筋の喜屋武家に嫁いだのでその家をトニモトとし御嶽を建てて信仰しました。

A 琉球寧度王統(1350年成立)の成立過程において冨名腰按司の長男若按司は寧度の追及を受け身の危険を感じ、八重山へ落ちのびることとなりました。
沖縄本島の喜屋武崎を出帆するに当り、海上安全を喜屋武崎の神に祈願しようやく黒島の東海岸に安着することができました。無事に着いたことからここは喜屋武崎の神のご加護によるものと深く感謝しその上陸地を喜屋武崎と呼ぶことにしました。同時にその地に礼拝所を建てて遙拝所としたのが喜屋武御嶽となりました。
若按司はアロースクで宏壮な住宅を建てて住みましたがこれを人々はグスクと呼びその石積みの遺構は今も残っています。(イヌムル=按司の城跡と呼ばれ島の西側の牧草地内にあります。)アロースクはアラグスク(=新城)の転訛であると考えられます。
 
喜屋武御嶽入口 同 拝殿
 

3.仲盛御嶽(ナハムリワン) 「八嶽」
 
仲盛御嶽(ナハムリワン)は、東筋集落から伊古桟橋へ向かう三叉路手前の左横にある御嶽です。
太古、オモト山から降った神が黒島のパイフタへ向かう途中、伊古の浜に上陸しそこでしばらく休憩しました。その一息入れたところが現在の仲盛御嶽のある場所だったそうです。伊古(イコ)という地名は「憩う」からきていると言われています。
旅願いをする御嶽ですが保里村から移された御嶽という伝えもあります。
その説は、文林姓九世万昌(唐から牛を導入し黒島の農業経営を大きく改善し、また今日の牛の生産地という畜産業の源を開いたという人とも言われています。その妻が初代の神司と伝えられています。)が航海安全などを拝み始め、後に御嶽となりました。後世、伊古には旅願いの御嶽がなく、保里には2つもあったことから仲盛御嶽は伊古に遷座されたと言われています。当時は香炉だけが移されたようで治呂久神司が神示を受けてイビの石を発掘したそうです。
 
仲盛御嶽の鳥居は2013年の台風被害で破損したため、撤去されています。 こちらは破損前の鳥居 (2009.11撮影)
仲盛御嶽拝殿

4.北神山御嶽(ニシハメマワン・ニシカメマワン) 「八嶽」
 
北神山御嶽(ニシハメマワン・ニシカメマワン)は、島の北東部(東筋から阿名泊に向かう道の途中)にある御嶽です。
昔、黒島の船道家の祖に3人の兄妹がいました。兄をカラマ加那、弟をカラジボウジ、妹をカキラチマーチと呼びました。男の兄弟は船乗りで船の操縦には抜群の腕前を持っていました。それでいつも選ばれて公用船の船員となり航海毎に無事故で手柄を立てていました。そのために船道という名誉ある家名を公儀から頂戴しました。  
その子孫に船道樽という航海に優れた腕前を持つ人物が生まれ、彼も八重山最高の公用船たる「親鷲−ウヤバシィ」の本船員に選ばれ、八重山−沖縄間を37回も航海して全く事故がありませんでした。この樽の奇跡的な航海の裏には霊感高い妹がつねに島の東海岸の山中で兄の航海安全を祈願していたのです。人々はこの不思議な霊感に驚き、その祈願所は神の霊場であるとして航海安全の御嶽として崇敬するようになりました。 
そして村で拝殿を創建し、村の旅御嶽として深く崇敬したそうです。これが北神山御嶽の由来だそうです。
 
北神山御嶽への道 北神山御嶽
  北神山御嶽 拝殿

5.南神山御嶽(パイハメマワン・パイカメマワン) 「八嶽」
 
喜屋武御嶽に行く道の途中、右手側(南側)にあります。
南神山御嶽(パイハメマワン・パイカメマワン)の由来は、オナリ神信仰(姉妹の霊力に対する信仰)と関わり、兄弟の危難に対し姉妹が霊的な庇護を発揮して祈りが通じ、旅御嶽として聖地になったそうです。

その由来は以下のようなものです。
昔、大浜宮の先祖航海術に長けた人がいました。あるとき公用船の舟子に選ばれて沖縄島に向かう途中逆風にあい南洋諸島方面に漂流しました。しかし幸いにも温かい島民の援護により島伝いに唐の国に辿り着き、唐から琉球国に送られ、沖縄を経て無事に故郷の黒島に生還することができました。 
この人の遭難漂流中、家ではその妹が山中にこもって日夜兄の無事平安を祈り、もしも兄が無事に帰ってきた時にはこの霊地に拝所を建てて信仰すると神に誓いました。彼女は誓いの通りに御嶽を建てて崇敬しました。これが南神山御嶽で、御神体は兄がお土産に持ち帰った鏡とされ、豊年・健康の神として信仰されているそうです。
 
南神山御嶽 遠景

6.比江地御嶽(ページワン)
 
比江地御嶽は、東筋集落内(「うんどうや」の斜め前)にある御嶽です。
その昔、比江地首里大屋子という偉人の弓の稽古場だったそうで、毎年旧暦8月には、ここで結願祭が行われ、奉納芸能が演じられます。

比江地首里大屋子は黒島の東北方、俗称「垣ヌ腹(カキヌバダ)」の干瀬の入口で三反帆船がしけで遭難した時、その乗組員救助の功績によって首里大屋子を拝命したと言われています。その人の没後、ゆかりの弓の稽古場に子孫が祠を建てて信仰したところ霊験あらたかであったので近隣の村でも信仰するようになり、御嶽として崇敬され村の祭祀も行われるようになりました。
 
比江地御嶽 比江地御嶽 遠景

7.南風保多御嶽(パイフタワン) 「八嶽」
 
南風保多御嶽(パイフタワン)は、仲本海岸から少し黒島灯台側に行ったところにある御嶽です。

太古、オモト山から降った神が黒島伊古の浜に着き一休みしました。一息入れたところが仲盛御嶽の位置です。地名の伊古は神が一休みした「憩う」からきたものと言われます。
神は伊古から神道を通ってヤマスキ(山崎村)のティミジヌハー(手水の井戸)で手足を洗い近くのパイフタの杜へ入りました。
ティミジヌハーのあった山崎村は1771年の明和の大津波で廃村となりました。しかし自然井であったティミジヌハー廃村後に立派な石積みの降り井戸(ウリカー)に改築されました。
南風保多御嶽は最初に神の下ったところとしてヤハナムトウ(八社の元)と呼ばれ村人の尊崇を受けてきました。ヤハナは黒島の公事御嶽、即ちヤーヤマのことであると言います。 
豊年・海上安全を祈願する御嶽です。
 
南風保多御嶽

8.迎里御嶽(ンギシトゥワン) 「八嶽」
 
迎里御嶽(ンギシトゥワン)は、元々迎里村の御嶽として創建されたものと考えられますが、由来・伝承などについては不明です。
仲本海岸と宮里海岸の間にあり、豊作と海上安全を祈願する御嶽で、豊年祭のときに成功を祈願する御嶽となっています。
 
迎里御嶽 同 拝殿

9.ピジリ御嶽
 
この御嶽は黒島ビジターセンターの南側、宮里海岸に行く道の途中左手を2〜30m進んだ所の右手側(海岸寄り)の藪の中にあります。藪の木々に遮られて今回は近づくことができませんでした。
昔、宮里村の津久登武家(ツクドゥンヤー)の人が夜、張網をもって松明の明かりで魚をすくい取る漁に出掛けたところ不思議にも魚はとれず何回も同じ石がすくい上げられたので、これはただの石ではないと持ち帰ったところ村の近くで網が破れて石が落ち、そこで根付いたように動かなくなってしまいました。そこでこれは確かに霊石に違いないとその場で信仰するようになりました。その後、同家では農作物は豊作、海では大漁が続いたので近隣でもこれを信仰するようになり御嶽として祀られるようになりました。
この霊石には海が干潮になると軽くなり、満潮になると重くなるという不思議なことがありました。それは干潮には神が漁に出られるためで、満潮には戻ってこられるからだと言い伝えられていたようです。
(この御嶽の所在地はなかなか分からなかったため地元の方に教えて頂くとともに案内して頂きました。)
 
ピジリ御嶽の遺構らしきもの。 写真では分かりづらいのですが、藪の中に石垣らしきものを見ることができます。

 

10.船浦御嶽(フノーラワン)
 
船浦御嶽(フノーラワン)は、豊年祭の船漕ぎが行われる宮里海岸の近くにある御嶽です。
黒島最初の造船所はパイフタ村のマキ泊でしたが、その後、宮里村の船浦に移転しました。船浦御嶽は造船の祈願、進水式、航海安全等を祈願する御嶽として(つまりは造船業が盛んになることを願って)創建されたものでした。祭祀のときは神司をはじめ船大工並びに島民が多数参列して儀式を行ったと言われています。
黒島の造船所は1678年古見村に移転しました。移転の理由は船材の調達に便利であるという事情によるものと言われています。しかし古見の造船所はその後、更に石垣島の石垣村の海岸に移転し「古見船浦」という地名を残しています。

黒島の船浦御嶽は造船所が古見に移転後もそのまま信仰が継続されてきたことになります。なお、保里北岸には同名の船浦御嶽と呼ばれる御嶽が2カ所(多良間船浦・古見船浦)並んで信仰されています。
(なお、以下の写真は地元の方に案内して頂き許可を得て撮影したものです。)
 
船浦御嶽 同 拝殿
香炉が置かれています。   扁額
 
分かりづらいのですがマーラン船が描かれています。  
 

11.浮海御嶽(フキワン) 「八嶽」
 
浮海御嶽は、もはや御嶽の原型を失い、イビ石(石碑:神が降臨する標識)も消失しています。
往昔、保慶村の銘里家の里祖先に信仰の深い人がいて、ある時漁に行き網を下したところ魚群は見えず高さ2尺ほどの石が浮いて網にかかりました。この人は何気なくその石を捨てて再び網を引いたところまた同じ石がかかってきました。そこでこの石はただの石ではなく霊石であるに゛違いないと持ち帰り庭に据えて信仰することにしました。最初は3人の乗組員だけで信仰していたところ大豊作に恵まれ粟黍など八束穂が垂れ下がり村民羨望の的となりました。これは霊石信仰の霊験によるものであり豊神の宿り給う石であると考えられました。そこで私すべきではないとして御嶽を建てて祀りました。
海に浮いた石ということで浮海という御嶽名になったものと推測されます。 
航海安全・豊作祈願の御嶽として信仰されています。
なお、保慶御嶽という表記もあります。元々は保慶村の御嶽という意味の命名であったと思われますが、同御嶽には桴海嶽という扁額が掲げられていたそうです。
(この御嶽の所在地はなかなか分からなかったため地元の方に教えて頂きました。)
 
浮海御嶽への入口(右側)
石垣が見えます。  
 
    イビ門のようにも思われます。
 

12.保里御嶽(ウブワン) 「八嶽」
 
保里御嶽は、黒島港の西側海岸沿いにある御嶽です。黒島の御嶽は3ケ所を除いて海岸沿いにあるのが特徴で、保里御嶽もその一つです。
昔、大和の国から航海を続けてきた大和の船が黒島の東崎のヌナシキという海岸に着き上陸しようとしたとき船の帆柱に不気味な蛇がからみついているのを一人の船員が発見しました。一行中の老人がそれは神の化身で我々の船を守護して下さったに違いないと言いました。それで一同丁重にその蛇を船から下ろしたけれどもいっこうに動こうとしないためこの場所は我々の上陸すべき所ではないと判断し、再び船を出して島を一周し、保里村西崎のイミスク浜で蛇は自ら船を下りて島に向かったはい出しました。それで船の人々もこここそ上陸の地であるとして一同上陸しました。
以来、不思議なことにそれまで蛇のいなかった黒島に急に蛇が増えだして、いつのまにか蛇の島として有名になりました。大和の人はこの島に永く滞在し島の女を妻にめとり幸福に暮らしていましたが大和へ帰る事情となりました。残された妻は夫の一路平安・健康帰郷を神に祈り念願をかけたところ無事に帰国したとの知らせが届きました。その妻の祈った場所を霊所として御嶽(旅御嶽)を建て信仰しました。航海安全の神として信仰されています。
 
保里御嶽 「保里嶽」と記された石柱と、寄付者名碑
拝殿   扁額
 

13.伊見底御嶽(イミスクワン)
 
昔、大和の国から航海してきた船が着岸した場所で、保里村の西北方地にあります。この船からその帆柱に巻き付いていた蛇が上陸して島に向かってはい出したという伝説があります。その後、黒島には蛇が急に増えたということだそうです。その蛇は神の化身で船を守護したと言われ、その上陸により人々もこの地から黒島に上陸したと言われています。伊見底御嶽は蛇神の上陸したゆかりの地に建てられ、航海安全の神として信仰されているそうです。
 
伊見底御嶽 同 香炉

4.乾震堂
 
黒島小中学校の東側に、黒島灯台の近くから移された現在の乾震堂があります。
 
乾震堂 遠景 乾震堂 鳥居と石碑
乾震堂 祠

15.旧乾震堂
 
伝承によると1800年頃、現在の黒島灯台の近くのユキラ浜に唐船の難破船が漂着し、船中からはミイラ化した遺体と満載の絹布類が見つかりました。島民がその死体を海に流したところ、死体に関わった人が次々と死亡し、島内ではネズミが異常繁殖しました。そこで、船の中にあった黒石を死体のかわりに海岸に埋めて供養したところ、ネズミの害は収まりました。
ところがしばらく経って何者かによって墓が荒らされると、再びネズミが大発生したため、島民は拝所を灯台近くの海岸から島の中心となる現在地に移し、島を挙げて大法要、供養を行ったそうです。するとネズミの大発生は再び収まりました。
 
旧乾震堂 (碑には「乾震坤大神」と記されています。)
 

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