舞台の芸能 2018 (初日)その3  作成 2018.12.22

2018年10月25日に開催された竹富島の種子取祭の「舞台の芸能」の様子を紹介します。
初日は玻座間村の演芸となりますが、一度に全ての演目を紹介することができませんので、いくつかに分けて紹介します。
ここは、その3です。

25.種子取

この舞踊は、種をまいて豊作を祈る踊りです。
 

 
 
 

26.ペーク漫遊記

「ペーク漫遊記」は戦前から演じられていたものの、一旦途絶えてしまい、昭和54年に復活したとのことです。
芝居の内容は、大豊作となった年に村頭が、在番を招待して祝宴を開いた際、この祝宴で踊った2人の踊り子のうち大名屋のカンチという若い娘を在番が気に入ってしまいます。在番はカンチを自分のものにしようとしたものの、カンチには新城という婚約者がいたことから、在番の申し入れを拒否しました。しかし、在番はそれを許しません。
ある時、二人が密会しているのを在番が発見し、カンチの婚約者の新城に島流しを命じました。 そして、この新城を乗せて船出しようとしたところに、首里王府からペークという役人がやって来て事情を聞き、在番の悪行を戒めます。 ペークの存在を知らなかった在番がそれに気がつき、平身低頭して自分の悪行を詫びるといったものです。

この漫遊記は、沖縄歌劇の流れを汲むものだそうです。
「ペーク漫遊記」は、若いカップルの仲を引き裂こうとする役人を、もっと偉い役人が懲らしめるという、分かりやすいストーリーです。
 
在番の登場です。
2人の踊り子が在番の前で踊ります。   在番を招待しての祝宴です。
 
    二人が密会しているのを在番が発見し咎めます。
 
婚約者の新城を乗せて船出しようとしているところです。 そこへペークが登場します。
ペークは在番の悪行を戒めます。 初めのうちは在番はペークの存在を知りません。
在番はベークに気付き平身低頭して自分の悪行を詫びます。
在番は二人にも詫びます。 また一緒になれた二人は喜びあいます。
  手に手を取って退場します。
 

27.シビラオーザ

6人による舞踊で、それぞれに異なる漁の方法を踊りに取り入れているようです。
 
 
 
 
     
 
     
 

28.真栄

人頭税を納めるため、西表島・仲間村に移住せざるをえず、離別を余儀なくされた真栄(マサカイ)と竹富島に残されたカナシャーマが互いに、「竹富の上空に白雲、積雲が上がったらカナシャーマだと思ってちょうだい」「西表島の古見岳の真上に月が上がったら真栄だと思ってくれよ」と言い交す哀しい舞踊です。

朱色の衣装が印象に残ります。
     
     
 

29.安里屋

 かつて竹富島では畑仕事をしながら歌う労働歌として「ユンタ」が歌われていました。 このユンタを歌うことにより、人頭税を納めるための過酷な辛い畑仕事を、お互いに励まし合って疲れを癒していたようです。
 農民たちの労働歌として知られる「安里屋ユンタ」には三線の伴奏はなく、古くから太鼓や銅鑼などの伴奏で歌われていましたが、この「安里屋ユンタ」に役人たちが編曲して三線を付けて歌ったと言われているのが「安里屋節」です。 (よく知られる「新安里屋ユンタ」とは曲が違います。)

 「安里屋ユンタ」と「安里屋節」はともに歌詞は同じですが、歌詞は23番あり、物語となっています。囃子は、別の人によって歌われ、23番は対話のように歌い続けられ途切れることがありません。
 八重山の他島でも「安里屋節」が歌われています。石垣島などの他島の「安里屋節」の歌詞は、竹富島の歌詞とは異なっています。竹富島では、クヤマは、ミザシシュ(目差主)から求婚される前に、既に上役の与人の求婚を受け入れていたので断ったとなっているのに対して、他島で歌われる<安里屋>は,他の島の男性と結婚するよりも地元の男性と結婚するほうが後々よいから、目差主の求婚を断ったとしています。<安里屋>と呼ばれる歌には、このように、竹富島の「安里屋ユンタ」「安里屋節」と他島で歌われている「安里屋節」、星克氏作詞・宮良長包氏作曲の「新安里屋ユンタ」の4種があります。

なお、安里屋の美女「クヤマ」は実在の人物で、1722年に尚敬王時代に安里家で生まれ、1799年の尚温王時代に78歳でこの世を去りました。竹富島には生家も残されています。

小型の打楽器の三板(さんば)が用いられています。
 
  

30.鳩間節(早調)

鳩間島は、八重山西表の北方にある周囲4kmの小島です。歌は、鳩間島の結願祭の時に稲や粟の稔りを神に感謝して踊られるものです。
元は鳩間島のゆんた(労働歌)のようですが、人頭税時代の八重山に生まれ生きた庶民の歴史が刻まれている歌とも言えます。小気味よいテンポの唄三線に太鼓、惹き込まれるような力強い踊りの「鳩間節」は、人気の高い琉球舞踊のひとつです。

 
 
  

31.古見ぬ浦

この歌は、大宜味長稔という目差の役人が作ったといわれています。彼は石垣島から与那国島へ行く途中、嵐で西表島の古見の浦に漂着しました。そこで美しい女性とめぐり会い、やがて出帆で2人は別れなければならなくなりました。長稔が、その別れを悲しんで作ったといわれています。
 
 
 
 
     
 

32.千鳥節

 
 

33.組長刀

東集落婦人部による「組長刀」です。
 
 
   
 
 

34.竹富口説

西支会の竹富口説です。リズミカルな踊りです。
口説とは、大和言葉の七五調を基本とし、同一のメロディを繰り返しながら景色や物語りを語るような内容のものです。 浄瑠璃の口説などのような口説歌は、室町から江戸初期にかけて念仏踊り系の伊勢踊りとして踊られ、物語り風の内容を歌って全国に流行しましたが、沖縄の口説もこれらの流れをくむものであると言われています。
 
  
     

34.曽我兄弟(曽我夜討

初日の最後に演じられたのは、鎌倉時代初期の仇討ちを語る「曽我夜討狂言」です。

鎌倉時代初期の仇討ちを語る 「 曽我物語:曽我兄弟、曽我夜討」は、1300年前後に成立した準軍記物語です。
庚寅の日(舞台の芸能初日)の最後に、歌舞伎の曾我兄弟が演じられます。
1903年に人頭税が廃止されると、それまでの士族による支配が終わり、島民たちは旧制度から解放されます。それまでは農耕の過程を表したものが多かった奉納芸能も、この頃から本土の狂言も盛んに種子取祭に取り入れられるようになったようです。

種子取祭で演じられる曾我兄弟のストーリーは次のようなものです。
幼い頃、由比ケで殺されかけた兄弟は、畠山重忠によって救われます。その恩返しは、父・河津三郎祐重の仇を討つことだと考えた兄弟は、工藤左衛門祐経の陣屋(仮屋御殿)へと急ぎます。途中、弟五郎時宗と親しい局(虎御前)に迎えられて工藤祐経の眠る仮屋御殿に案内されます。 兄弟は工藤左衛門祐経を叩き起して仇討ちをします。
仇討ち成就後、弟五郎時宗は「源頼朝公に会いに行く」と言い、兄弟は点水で別れの水杯を交わします。兄弟はそれぞれ、兄十郎が父の祐重に似ていること、弟五郎が母おまんに似ていることを称えあって退場します。
 
曽我兄弟です。
松明は本物の火が使われています。
「虎御前」の案内で仮屋御殿へ急ぎます。
父の仇、「工藤左衛門祐経」の登場です
    「工藤」は曽我兄弟に仇討ちにされ、切られてしまいます。
しかし何度も切られますがなかなか死にません。   ついに「工藤」は打ち取られます。中央の倒れた姿です。
 
父の仇を討ち取り兄弟で喜び合います。    
 
 
2018年の舞台の芸能・初日の最終演目である「曽我兄弟」が終わったのは17時50分過ぎでした。


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